韋隠の妻

大暦年間(766〜779)のことである。尚衣奉御(しょういほうぎょ)の韋隠(いいん)が韓晋(かんしん)の娘を妻に迎えた。 新婚の夢もまだ覚めないうちに、韋隠は新羅(しらぎ)へ使者として赴くこととなり、涙ながらに妻と別れて出立した。一日もすると、も…

樹下の美女

太原(山西省)の王垂(おうすい)と范陽(はんよう、河北省)の廬収(ろしゅう)は親友同士であった。唐の大暦(たいれき)年間(766〜779)初めに、二人は舟で淮南(わいなん)と浙江(せっこう)の間を旅した。 石門駅の近くの樹下に一人の女が立っていた…

赤い縄(二)

老人は本を閉じて立ち上がると、袋を担いで歩き出した。韋固もその後について行った。市場に着くと、一人の老婆が市場へやって来るところであった。老婆は片目がつぶれており、身なりもたいそうみすぼらしい。その懐には三歳ばかりの幼女がぼろにくるまれて…

赤い縄(一)

杜陵(とりょう、陝西省)に韋固(いこ)という人がいた。幼い頃に両親を亡くしていたので、早く妻を迎えて家庭を持ちたいと思っていた。心当たりに縁談を頼んでいたのだが、決まってあと少しというところで破談になるのであった。 貞観(じょうがん)二年(…

壁龍

唐の柴紹(さいしょう)の弟の某は武勇に優れていた。非常に身のこなしが敏捷で、十数歩(一歩は約1.5メートル)もの高さまで飛び上がることができた。 これに興味を覚えた太宗は、皇后の兄、長孫無忌(ちょうそんむき)の鞍一揃いを盗み出すよう命じた。無…

銅人の怪

処士の張[糸眞](ちょうしん)は早くに妻を江陵(こうりょう、湖北省)で亡くした。その後、すぐに妾を入れたのだが、これがたいそう艶麗(えんれい)であった。 妾を迎えて十日足らずのある日、料理番の下女が竃(かまど)の下で小さな銅人を見つけた。大…

僕僕先生

僕僕先生がどこの誰なのかはわからない。自ら姓を僕、名を僕と称し、どこから来たのかもわからなかった。 僕僕先生は光州楽安県(山東省)の黄土山(こうどさん)に住み、三十年あまりの間、自ら練り上げた杏丹(きょうたん)という薬を服用した。その暮らし…

玉女

唐の開元年間(713〜741)のことである。華山(陝西省)の雲台観に玉女(ぎょくじょ)という下女がいた。四十五歳の時、大病を患い、全身に腫れ物ができ、つぶれて悪臭を放った。観中の人々は病がうつることを恐れて、玉女を山奥深くの谷川の近くに捨てた。…

大力長者

北斉の稠(ちゅう)襌師は幼くして出家した。当時、寺には腕白ざかりの小坊主がたくさんおり、休憩時間になると相撲をとって遊ぶのが常であった。稠襌師は生来ひ弱だったので、小坊主達の格好な標的となった。相撲を取ると称してはつき転がされ、いじめの対…

李載

大暦七年(772)、大理評事の李載(りさい)が監察御史を兼任し、福建の節度観察を代行した。李載は建州浦城(ほじょう)に役所を設置したのだが、浦城から建州までは七百里(当時の一里は約 560メートル)離れており、その地は瘴気(しょうき)に満ちていた…

皇帝と道士

唐の玄宗(げんそう)皇帝は珍しもの好きであった。最近では特に道術に大いに興味を抱いていた。その不思議さを目の当たりにするにつれ、自分でも習得して皆を驚かせてみたいと思うようになった。そこで道士の羅公遠(らこうえん)に頼み込んで、隠形(いん…

紫雲観の女道士

唐の開元二十四年(736)の二月、玄宗は洛陽に行幸した。当時の河南尹(いん、長官)は李適之(りせきし)であった。 その日、洛陽一帯では大風が吹き、玉貞観に一人の女道士が飛ばされてきた。その噂を聞きつけて参拝客が集まり、玉貞観(ぎょくていかん)…

任氏(後編)

鄭が家に帰って間もなく韋が訪ねてきた。 「昨日は一体どうしたんだ。飲み屋でずっと待ちぼうけさせられたぞ」 となじった。鄭はひたすら謝って、任氏のことには一言も触れなかった。ただ、任氏の艶やかな姿が思い起こされ、何とかもう一度会えないものかと…

任氏(前編)

唐の玄宗(げんそう)の御代に韋崟(いぎん)という人がいた。母が王族の出身で若い頃から豪放磊落(らいらく)、酒好き、女好きでいわゆる侠気(おとこぎ)に富む気性であった。その従姉妹の婿に鄭六という者がいたが、この人も少年の時から武芸を習い、や…

王大

穎陽(えいよう、河南省)の蔡四(さいし)は文才豊かな人であった。唐の天宝年間(742〜756)はじめに、彼は家族とともに陳留(ちんりゅう、河南省)の浚儀(しゅんぎ)に移り住んだ。 蔡四が詩を吟じると、いつもどこからか鬼が現われ、榻(ねだい)に上が…

南海漂流

陵州刺史の周遇は生臭を口にしなかった。劉恂(りゅうじゅん)がその理由を問うたところ、自らの不思議な経験を語って聞かせてくれた。 周遇が若い頃、青土(山東省)から海に乗り出し、福建に行こうとした時のことである。運悪く時化(しけ)に遭い、五日も…

韜光

長安の青龍寺の僧侶、和衆(わしゅう)と韜光(とうこう)は親しくしていた。韜光は富平(ふへい、陝西省)の出身で、里帰りをすることになり、和衆に言った。 「私は何か月か家におりますので、近くまでいらした時にはお立ち寄り下さい」 「ええ、是非、そ…

頭痛

曲阿(きょくあ、江蘇省)の彭星野(ほうせいや)に秦瞻(しんせん)という人がいた。 ある時、昼寝をしているとどこからかなまぐさい臭いがしてきた。はっと目覚めてみれば 、目の前に蛇がいた。蛇は秦瞻の顔近くにはい寄ると、鼻の孔(あな)にもぐり込ん…

王瓊

唐の貞元年間(785〜805)初めのことである。丹陽県(江蘇省)知事の王瓊(おうけい)は任期が満ちた後、都に呼び戻された。その後、三年の間、任官できず、悲嘆に暮れていた。 王瓊は茅山(ぼうざん、江蘇省)の道士葉虚中(しょうきょちゅう)のもとで物忌…

超絶技巧

唐の穆宗(ぼくそう、在位821〜824)の時のことである。 飛龍隊の衛士に韓志和(かんしわ)という人がいた。もとは倭国の人である。倭国で何をしていたのか誰も知らなかったが、木彫りの技術に非常に優れていた。彼が彫った鳥は餌をついばんだりさえずったり…

小麦粉

唐の開元年間(713〜741)のことである。 彭城(ほうじょう)の劉甲という人が河北の知県に任じられた。家族を連れて任地へ赴く途中、山間の旅籠に宿をとった。劉甲の妻は絶世の美女で、これを見た旅籠の主人はこう言った。 「この地には神がいて、美女と見…

古井戸の怪

唐の天宝年間(742〜756)のことである。金陵(きんりょう、南京)の裕福な家の子弟で陳仲躬(ちんちゅうきゅう)という人がいた。仲躬は生来学問を好み、研鑚(けんさん)を積むために何千両もの金子を携えて洛陽に遊学することにした。洛陽に着いた仲躬は…

魚玄機

長安の咸宜観(かんぎかん)に魚玄機(ぎょげんき)という女道士がいた。字(あざな)は幼微(ようび)といい、もとは長安の娼家の娘であった。絶世の美貌と才気に恵まれ、書や文を好んだ。特に詩作に、その才能を発揮した。十六歳の時、妓女となったが、金…

三娘子(三)

一月あまり後、季和は洛陽から戻る途中、再び板橋店を通りかかった。行きと同様、三娘子の旅籠に宿をとった。偶然にも他の泊まり客はいなかった。 三娘子はこの前と同じく、料理と酒と巧みな話術で季和をもてなしてくれた。夜も更けてそろそろ寝る時刻になっ…

三娘子(二)

木人は木牛に鋤(すき)をつけると、土間の一角を行ったり来たりしながら耕しはじめた。耕し終わると、三娘子は例の小箱から袋を取り出して木人に手渡した。木人は袋の中身を耕した畑にまいた。袋の中身は蕎麦(そば)の種であった。蕎麦の種は地面に落ちる…

三娘子(一)

唐のことである。 開封(かいほう、河南省)の西郊に板橋(はんきょう)店という宿場があった。この宿場で三娘子(さんじょうし)という女がいつの頃からか旅籠を開いていた。この女の生国、氏素性を知る者はいなかった。どこからともなく現われた三十あまり…

宋申錫の怨み

唐の丞相の宋申錫(そうしんしゃく)は宰相になったばかりの頃、帝からの信任が厚かった。宋申錫自身も国家の安泰にすることこそ、己の責務だと自負していた。 当時、朝廷は宦官勢力と科挙出身者とが対立していた。その中で鄭注(ていちゅう)は両勢力と通じ…

手紙

唐の元和(げんな、806〜820)年間のことである。 呼延冀(こえんき)という役人が妻を連れて任地の忠州(四川省)へ赴く途中、追いはぎに出くわした。身ぐるみはがれたが、辛うじて命だけは落とさずにすんだ。助けを求めて人家を探してさまよううち、一人の…

不孝の訴え

李傑(りけつ)が河南尹(かなんいん)であった時、母親が実の息子を不孝の罪で訴えるという奇妙な事件が起こった。息子に事情を問うと、泣くばかりで何の申し開きもしない、ただ、 「母に対して罪を犯したのですから、死罪になって当然です」 と言うだけで…

薛直の死

勝州(しょうしゅう、内蒙古自治区)都督(ととく)薛直(せつちょく)は、丞相(じょうしょう)薛納(せつのう)の息子であった。殺生を好み、鬼神を恐れなかった。 ある時、管轄下の県へ出かけた。戻る途中、宿場をあと二つ過ぎれば勝州に着くというところ…