墨跡

唐の封望卿(ほうぼうけい)は僕射(ぼくや)の封敖(ほうごう)の子であった。杜ソウが鳳翔(ほうしょう)節度使になると、望卿を判官(はんがん)として招いた。


望卿の居室の壁には筆から散った墨の跡が点々とついていた。ある日、望卿はこの墨の跡を目にするなり、爪で一つ一つ、つぶしはじめた。その顔色は真っ青であった。


侍女がわけをたずねても、望卿は黙ったままで答えなかった。


ほとなくして、望卿は重い病にかかった。望卿は侍女に言った。


「この前、私が爪で墨の跡をつぶしたことを憶えているか? 不吉に思ったので、お前にきかれても答えなかった。実は墨の跡一つ一つがすべて『鬼』の字に見えたのだ」


数日後、望卿は死んだ。



(唐『玉泉子』)