蕭県の陶工

鄒(すう)氏は代々、エン州(山東省)に住んでいたが、師孟(しもう)の代になって徐州(安徽省)の蕭(しょう)県北部の白土鎮に移り、陶工の親方となった。


白土鎮には三十あまりの窯(かま)があり、数百人の陶工が働いていた。その中に阮十六(げんじゅうろく)という陶工がいた。豊かな才能に恵まれ、その作品は斬新であった。仲買人は阮十六の作品に倍の値段をつけた。また、非常にまじめでおとなしかったので、師孟はいつも目をかけ、末娘を嫁がせた。数年が過ぎ、夫婦は男女三人の子供に恵まれた。


日に日に子供達は成長していった。愛らしい若妻であった鄒氏の娘も一家の主婦としての落ち着きを身につけていた。その中でどうしたわけか、阮十六一人が少しも年を取らなかった。人々は不思議がり、


「人間ではないのではないか?」


と疑う者もいた。さすがに師孟も他人のうわさを聞き流すことはできなかった。ただ、妻は心から阮十六を愛していたため、何も気づかなかった。


阮十六は時折、一人で山へ入ることがあったが、いつも丸腰で武器を携えなかった。山を登り、峰を越え、川を渡って林を歩く時も、蛇や虎を恐れなかった。このことも人々の目には奇妙に映った。


蕭県一帯では上巳節(旧暦の三月三日)になると、皆で野遊びし、谷川のよどみに油を落として一年の吉凶を占う風習があった。これを「油花卜(ゆかぼく)」と呼んでいた。


阮十六も家族とともに野遊びに出かけた。山の近くまで来ると、鹿が鳴き声が鳴いていた。それを聞いた阮十六の表情は生き生きとして、うれしそうであった。夕暮、帰宅すると、突然、妻に、


「両親の顔を見に戻るよ。しばらくお別れだ。私に会いたかったら、州城の宝寧寺(ほうねいじ)の羅漢洞の伏虎禅師(ふくこぜんし)のもとを訪ねてくれ」


と言った。妻が引き止めたが、阮十六はふり切るようにして、荷物も持たずに旅立った。


二年後、師孟は家族を連れて宝寧寺を参詣し、施餓鬼(せがき)を行なった。阮十六の妻である末娘も同行した。末娘は今でも阮十六のことを忘れられなかった。阮十六の言葉を思い出し、母とともに羅漢洞に入った。伏虎禅師の像のそばに、手で虎の額を押さえる一体の泥人形があった。


その泥人形は阮十六にそっくりであった。



(宋『夷堅志』)