元の至元(しげん)二十年(1283)に姚忠粛公(ようちゅうしゅくこう)が遼東の按察使(あんさつし)となった時のことである。


武平県の劉義という者が、兄嫁が情夫と共謀して兄の劉成を殺した、と訴え出た。県令の丁欽(ていきん)が調べにあたったのだが、劉成の死体にはどこにも外傷がなかった。丁欽は考え込んだあまり、食事ものどを通らなくなった。


妻の韓氏に理由をたずねられ、丁欽は事情を話した。すると、韓氏は、


「もしかしたら脳天に釘を打ち込んで殺したのかもしれませんよ。死体のもとどりを解いて調べてごらんなさい」


と助言した。


丁欽がもとどりを解いてみると、確かに脳天に釘が打ち込まれていた。この証拠を突きつけて劉成の妻を責め問うたところ、夫殺しを自白した。こうしてようやく裁判は落着した。


丁欽は姚公に召し出された。姚公がその明察をほめると、丁欽は、


「すべて妻のおかげです」


と答えた。姚公は少し考えてからたずねた。


「その方の妻は初婚か?」


「いえ、再婚です。前夫に死に別れて、私のところへ嫁いでまいりました」


早速、姚公の命令で、韓氏の前夫の柩があばかれた。その死体の脳天には釘が打ち込まれていた。韓氏は前夫を殺した罪で捕らえられた。丁欽はこの事件から受けた衝撃がよほど大きかったのか、ほどなくして死んだ。


当時の人々は、姚公を宋の名裁判官包公の再来と称賛した。



(元『南村輟耕録』)