毛鬼

唐の建中二年(781)、江淮(こうわい)地方に奇妙なうわさが流れた。


湖南から[厂+萬]鬼(れいき)が来るというのである。毛鬼(もうき)だと言う者もあれば、毛人(もうじん)だと言う者、[木長](とう)だと言う者もいた。さまざまな呼び方があるのは、この鬼が無限に変化(へんげ)するからであった。


うわさによれば、この鬼は人の心臓を好んで食い、子供は皆さらわれてその餌食にされるという。人々は恐れ、皆で集まり、夜は炎を絶やさず、弓矢や刀を持って寝ずの番をした。鬼がどこかの家に入った時には、すべての家が板や銅器を打ち鳴らした。その激しい音は天地を震わせるほどで、中には恐怖のあまり、死ぬ者もいた。この騒ぎは、当局が禁止してもやむことはなかった。


先のエン州(山東省)功曹の劉参(りゅうさん)は淮泗(わいし)の人で、引退して広陵(こうりょう、江蘇省)に移り住んできた。劉氏には六人の息子があり、いずれも武芸に秀で勇ましかった。


劉氏は息子達を率いて弓矢を携え、見張りをした。娘達は皆、母屋に残して中から鍵をかけさせ、息子達が屋外で見張りに立った。


その夜更け、突然、母屋から娘達の悲鳴が聞こえた。


「キャーッ、毛鬼が入ってきた!」


息子達は驚いて駆けつけたが、扉には中から鍵がかかっているため、入ることができない。窓からのぞいてみると、高さ三、四尺(当時の一尺は31センチ)ほどで、全身ハリネズミのような毛に覆われた長いすのようなものが、四面に生えた足で走り転げていた。そのそばには、体中に赤黒い毛の生えた毛鬼がいた。その爪と牙はまるで刀のように鋭かった。


毛鬼は幼い末娘をつかむと、長いす状の怪物の上に放り投げた。続いて次女につかみかかった。一刻を争う事態に、息子達は母屋の壁を破って突入した。そして、長いす状の怪物に向かって、一斉に矢を放った。怪物は部屋の中を逃げ回った。毛鬼も逃げ出し、しばらくするとその姿は見えなくなった。怪物も母屋から逃れ出て東に向かって走った。しかし、その体に数百本もの矢を突き立てられて、その動きはしだいにのろいものになった。


息子の一人が怪物に飛びついた。しばらく格闘するうちに、両者は河に転げ落ちた。河の中から、息子が叫んだ。


「怪物を捕まえたぞ! さすがにやつも弱っているようだ。早く灯りを持ってきて、引き上げてくれ」


兄弟達が灯りで照らすと、怪物の姿はなく、息子が橋の柱にしがみついていた。息子の両の手の爪はすべてはがれていた。


数日後、駐屯地の兵士が夜中に屋根の上を走る毛鬼を見つけて、矢を射かけたが中らなかった。その兵士は無闇に騒いで人々を驚かせた罪で、翌日、罰せられた。そして、住民に対しては、盗賊が妖怪の仕業に見せかけて騒ぎを起こし、そのすきに盗みを働いたものと発表した。


これを境に、毛鬼の騒動はふっつりとやんだ。その理由はわからない。



(唐『通幽記』)