死後の逢い引き

揚州(江蘇省)の某生は、名門の生まれで、父親は都で官職に就いていた。幼い頃から聡明で、目を見張るばかりの美少年であった。十四歳の時、府学の秀才となり、幾度か受けた試験にはすべて合格した。その前途は開け、人々は某生を大空に羽ばたく鷲のようだと褒めた。


母親は息子をたいそう慈しみ、よい娘を捜して嫁に迎えようと願っていた。しかし、某生の様子を見る限り、まだ妻を娶る気はないようであった。


隣家は富豪で、某生より一つ年下の娘がいた。緑の黒髪が額を覆い、珠玉のように美しく、好んで詩を詠んだ。


ある時、某生が楼閣を結ぶ天橋(てんきょう、渡り廊下)を渡る時、この娘の姿を見かけて、思いを寄せるようになった。彼は母親に、隣家の娘を娶りたいことを告げた。すると、母親は、

「私はそのお嬢さんは見たことがありませんが、侍女の一人があちらのお庭へ虞美人草(ぐびじんそう)を摘みに行った時、お嬢さんにお目にかかったそうです。そのお嬢様が詠んだ虞美人草の詩は、私も伝え聞いたことがあります。とてもおきれいで、上品なお嬢さんだとか。私に異存はありませんが、こういうことは都のお父様のお許しを得なければなりませんよ」


と言って、都の父親の書状でこのことを知らせた。ところが、父親は、


「隣の娘と結婚したいだと? あの家は金があるだけで、無位無官だ。うちとは家柄が釣り合わん」


と怒って、結婚を許さなかった。某生は怏々として喜ばず、自分で書いた詩を、母親の侍女を通じて娘に届けさせた。娘は詩に目を通すと、はらはらと涙を落とした。実は、娘も以前から某生に心を寄せていたのであった。娘も詩を書いて返した。


以来、毎日のように二人は侍女を通じて文を交わしたが、娘の邸には大勢の使用人の目があり、幾つもの門と扉に厳重に守られているため、会うことはできなかった。娘は某生への思いを募らせたあげく病にかかり、とうとうはかなくなった。


某生は娘の棺が城外の寺に安置されていることを知ると、母親に頼んだ。


「試験がもうすぐです。家にいては何かと気が散るので、城外の寺で勉強させて下さい」


母親の許しを得て、某生は童子を一人、連れて寺へ行った。そして、娘の棺の安置されている東の離れに部屋を借りた。


某生は朝晩、娘のために香を焚き、供物を供えた。夜は試験のために勉強をしたが、皆が寝静まると、しばしば娘を思って泣いた。


ある日、童子が外出から戻ってくると、某生の姿が見えなかった。それから三日の間、某生は見つからず、家族は僧侶が何かしたのではないかと疑い、ついに役所に訴え出た。


役所では某生の父親から書状で頼まれていることもあり、寺の住持を捕らえて厳しく詮議した。住持は拷問に耐えかねて、某生の殺害を認めた。しかし、肝心の死体が見つからず、事件は迷宮入りかと思われた。


たまたま張真人が都での朝見からの帰りに、この地を通りかかった。僧侶達が張真人に無実を訴え、助けを求めた。すると、張真人は言った。


「そう難しくはないことだ。寺内の清らかな場所を選んで壇を築いておきなさい。私が、自ら出向くから」


僧侶達は寺に両家の両親を招き、道士が三日間の祈祷をした。四日目の午後、張真人が寺に現われ、壇で香を焚いて拝礼した。


この日、寺には、噂を聞きつけた見物人が山のように集まっていた。張真人が壇に立ってから、かなりの時間が経ったが、何ごとも怒らなかった。見物人から、失笑が漏れ出したその時である。日が照り、晴れ渡っていたが、にわかに雷鳴のような響きが轟いた。皆はあわてて地面に身を伏せた。その時、何やら大きなものが、壇の前に落ちてきた。それは娘の棺の蓋であった。


皆が娘の棺を安置してあるところへ行ってみた。すると、某生と娘が棺の中でしっかりと抱き合っていた。すでに某生の息はなかったが、二人はまるで眠っているようであった。


両家は某生と娘を平山堂の西に葬った。疑われた住持には手厚い褒美を取らせた。


これは康熙(こうき、1662〜1722)二十年代に起きたことだという。



(清『広新聞』)



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