古傷

サルト氏のチュク・バトゥルは若い頃、烈親王麾下(きか)の武将として勇名をはせていた。


明の宣化府城(河北省)を攻めた時、真っ先に城壁をよじ登ったチュク・バトゥルは待ち構えていた明兵に首を斬られ、深手を受けた。しかし、チュク・バトゥルは深手をものともせず、左手で額をおさえて首を支えると、右手の刀で切りまくって数人を倒した後、力尽きて倒れた。清兵の猛攻の前に宣化府城は陥落した。


部下がチュク・バトゥルの屍をかついで行こうとしたところ、まだかすかに息が通っていた。そこで、医者のもとに運び込んだ。診察した医者はこう言った。


「幸い、まだのどは断ち切られておりません。一筋の息が通っております。ご婦人に傷をおさえて、息を吹き込ませるのです。さすれば、助かるかもしれませぬぞ」


早速、城内の妓女に命じて医者に言われた治療法を実施した。そして、荒縄で首の傷を縫い合わせた。果たしてチュク・バトゥルは生き返った。


順治年間(1644〜1661)になって、チュク・バトゥルは帝に従って北京南郊の南苑で巻狩りをした。チュク・バトゥルは弓を手に馬を駆って獲物を追いかけた。追いつくかと思われたその時、馬がつまづいた。


そのはずみで傷口が開き、チュク・バトゥルは亡くなった。



(清『嘯亭雑録』)