逃げる女

宋の紹興(しょうこう)年間(1131〜1162)はじめのことである。陳監倉(ちんかんそう)という人が北から家族を連れて逃れてきて、邵武軍(しょうぶぐん、福建省)に居を定めた。陳監倉には陳淑(ちんしゅく)という年頃の娘がおり、艶麗な上にたいそう聡明であった。この陳淑を金持ちの息子の劉生が見初め、結婚することを望んだ。しかし、劉生の両親は、陳監倉が貧しいくせに官位を鼻にかけているところが気に入らず、結婚を許さなかった。


そうこうするうちに陳監倉が死に、寄る辺を失った陳淑は食べていくために近くに住む黄生のもとへ嫁いだ。陳淑が嫁いで間もなくして、黄生の母が小さな罪を犯して捕らえられ、家財を没収された。かまどの火にも事欠く始末で、黄生は陳淑に着物を質入れしに行かせた。陳淑は劉氏の店の前を通りかかった時、ばったり劉生と再会した。劉生は大いに喜び、店に呼び入れてともに酒を酌み交わした。陳淑から事情を聞くと、劉生は千銭を与えた。別れ際に劉生は言った。


「お金がいるなら、またおいで」


数日後、陳淑が再び劉氏の店に行くと、劉生は前回よりも多くの銭を与えた。陳淑は求められるままに着物を脱いで体を与えた。


以来、陳淑は甲斐性のない黄生を嫌い、寝床をともにすることを拒んだ。黄生は陳淑の突然の変化を不審に思い、何度かその後をつけてみると、いつも劉氏の店に入ってしばらく出てこない。黄生は何も知らないふりをして、劉生により多くの銭を要求するよう仕向けてみると、陳淑が銭を多めに持って帰ってきた。これこそ不義の動かぬ証拠とばかりに、黄生は陳淑を罵った。


「うちは貧乏ではあるが、こんな汚い金は受け取れないぞ。この売女(ばいた)め、役所に突き出してやるからな。覚悟しておけ!」


陳淑は黄生を深く恨んだ。そこで黄生を酔わせて殺し、その死体をばらばらにして甕(かめ)に隠した。


しばらくして、近所の者が黄生の姿が見えなくなり、家から妙なにおいがすることに気づいて役所に通報した。早速、家宅捜索をしてみると、甕から黄生のバラバラ死体が見つかり、陳淑は夫殺しの罪で捕らえられた。劉生は連坐することを恐れて逐電しようとしたところを捕らえられ、罪人の刺青を入れられた後、[シ豊](れい)州(湖南省)に流された。


陳淑は夫を殺して死体を損壊した罪で、最も重い凌遅(りょうち)の刑に処せられることとなった。執行まで牢獄につながれることとなったのだが、看守の謝徳が陳淑の美貌にほれ込み、仲間の協力を得てひそかに脱獄させた。


謝徳と陳淑は手に手を取って、興国(こうこく、湖北省)の山中に逃げ込み、途中、李氏の旅籠に泊まった。李は二人が逃亡者であることを見抜くと、捕らえようとした。謝徳は恐ろしくなり、陳淑を置いて一人で逃げてしまった。残された陳淑は、自分は江州(江西省)の官妓でなじみ客の兵士と駆け落ちした、とうそをついた。


李は陳淑を妾にしようとした。しかし、正妻がたいそう嫉妬深く、許さない。そこで、自分が経営する居酒屋に、陳淑を酌婦として置くことにした。李の正体は盗賊で、居酒屋の客を毒で盛り殺しては、その金品を奪っていた。陳淑もその手管を間近に見るうちに、すべて身につけてしまった。


一方、逃れた謝徳は旅回りの医者に身をやつして、三、四年の間、荊州(けいしゅう)や鄂州(がくしゅう)など湖北一帯を放浪した。そして、邵武軍に戻る途中、興国の山中で李氏の居酒屋に立ち寄った。すっかり様子が変わっていたため、李は謝徳だとは気づかなかった。しかし、陳淑は牢獄から自分を救い出してくれた謝徳のことを一日も忘れたことがなく、すぐに誰だかわかった。


李氏が席を外したすきに、陳淑は謝徳のもとに駆け寄った。


「すぐに酔っ払ったふりをしてください」


謝徳は言われたとおりにした。その夜、陳淑はしびれ薬を混ぜた酒を李と二人の下女に飲ませた。薬が効いて倒れたところを、謝徳に殺させた。そして、金目のものを洗いざらいまとめ、西の襄陽(じょうよう、湖北省)へ向かった。翌朝、家人が李と下女の死体を見つけた。おそらく殺そうとした客に返り討ちに遭ったのだろう、と思った。


劉生の方は[シ豊]州に流された後、わいろを贈って自由の身となったが、邵武軍には戻らなかった。父方の叔母が襄陽(じょうよう)の崔観察に嫁いでいたので、そこへ身を寄せることにした。崔観察(さいかんさつ)は大盗賊で、若い頃には大いに世間を騒がしていた。今では引退して、家や店舗を貸して暮らしていた。


崔観察は劉生を市場にある店に住まわせた。偶然、謝徳がここを訪れた。劉生は牢獄で謝徳の顔を見たことがあったので驚いたが、謝徳の方では気づかなかった。劉生は謝徳のことを密告しようかと思ったが、そうなれば陳淑にも累が及ぶので、表面上は気づかぬふりを続けた。一月あまり経って、劉生は謝徳を郊外に酒を飲みに行こうと誘い出した。その帰り、かなづちで殴り殺し、死体を小川に投げ捨てた。そして、陳淑を自分の妾にした。


その頃、劉生の父親は息子が自由の身となったことを知り、邵武軍に呼び戻るよう、手紙をよこした。崔観察は馬と下僕をつけて送り出した。劉生は、


「後で必ず迎えに来るからね」


と言って、陳淑の髪を切り、知り合いの尼寺に身を隠させた。興国で下僕を帰らせ、一人で襄陽まで陳淑を迎えに戻るつもりであった。


その夜、劉生は興国から十里ほど離れたところで、袁八(えんはち)の旅籠に宿を取った。袁八は劉生の嚢中が豊かなのを知ると、殺して奪った。


劉生の父親はいつまで経っても息子が戻ってこないのを不審に思い、崔観察のもとへ人をやって問い合わせてみると、


「もう何か月も前に送り出したぞ」


とのこと。使用人から報告を受けた劉生の父親は、自ら襄陽に赴いた。


ある日、崔観察の妻が尼寺で法要を営むこととなった。劉生の父親も息子が一日も早く見つかることを祈願しようと同行した。崔観察は尼寺の大事な檀家であったので、寺中の尼僧が出迎えた。


「お前、どうしてここにいる?」


劉生の父親は年若い尼僧の姿を見るなり、驚きの声を上げた。


「こいつは亭主を殺した上に死体を切り刻んで、極刑を言い渡された女だ。せがれはこの女の巻き添えを食ったのだ。脱獄したと聞いていたが、こんなところに隠れていたとは」


陳淑はその場で捕らえられた。そして、ついに凌遅の刑の処せられた。



(宋『鬼董』)