生きていた死刑囚

順治年間(1644〜1661)、山東の張立山が開化(浙江省)の県知事となった。木子雄(もくしゆう)という男が財産を奪うために殺人を犯して、死刑を言い渡された。後は刑の執行許可が下るのを待つばかりであった。


たまたま張立山の親が死んだため、郷里に戻って三年間、喪に服さなければならなくなった。開化県知事の職務は、銭塘(せんとう)の県丞(副知事)王なにがしが代行することとなった。張立山はその任期中に公金に百金あまりの欠損を出していたのだが、引き継ぎ事務に煩わされてそのままになっていた。王県丞はしきりに返済を催促し、張立山の行李を差し押さえようとまでした。張立山は衣服や装身具を売って欠損分の穴埋めをし、ようやく帰郷することができた。その数ヵ月後、刑部から死刑の執行許可が下り、木子雄は処刑された。王県丞が監督官として刑の執行を見届けた。


立山は喪が明けると復職して江西の鉛山の県知事となった。着任からほどなくして、河口鎮で盗賊が人を殴り殺して逃げるという事件が起こった。張立山は捕り手を派遣して、すぐに下手人は捕らえられた。


立山自らが取り調べることになったのだが、引き立てられて来た下手人の顔に見覚えがある。しかし、どこで見たのかすぐには思い出せなかった。下手人には開化なまりがあった。名前をたずねると、李雄(りゆう)だという。


「李雄、はて……?」


立山はその名前に聞き覚えがあるような気がして首をひねった。取り調べを進めるうちに、李雄の正体が木子雄であることがわかった。


「お前はとっくに処刑されたはずではないか。どうしてここにいるのだ?」


子雄も張立山の顔を見つめて、顔色を変えた。相手が開化で自分を取り調べた県知事であることを思い出したのであった。


子雄は観念して、つぶさに処刑の模様を話した。処刑が執行されたのは夜であった。執行人の刀が首の骨に当たり、その激痛で子雄は意識を失った。しばらくして目を覚ますと、辺りには誰もいなかった。首は切り離されておらず、うなじに深い傷があったが、すでに血は止まっていた。子雄は縛られていた縄をほどいて、逃げたというのである。江西まで逃げて名前を李雄にあらため、もとの盗賊家業に戻った。そして、このたび捕らえられたのであった。


立山が子雄のうなじを調べると、確かに刀傷が残っていた。処刑の監督官は誰かと聞けば、王県丞だという。張立山は王県丞の名前を聞くなり、公金の欠損分を執拗に取り立てられたことを思い出した。彼はずっとこのことを根に持っていた。早速、子雄が処刑の不備により脱走し、再び犯罪を重ねて捕らえられたことを告発した。


江西巡撫(じゅんぶ、省の行政と軍事を統轄する)はことを重要視し、文書で浙江巡撫に調査を依頼した。浙江巡撫は驚いて、処刑の監督官と執行人を出頭させて尋問することにした。この時、王県丞はすでに江南の県知事に昇進して、浙江を離れていた。


浙江巡撫の調べたところでは、開化県では今まで死刑が執行されたことはなく、執行人も子雄の時にはじめて執行にたずさわったという。あの夜、子雄の首を切り離すことはできなかったが、倒れたので死んだものと思い、むしろをかけて夜が明けてから死体を収容するつもりであった。翌朝、刑場に行くと、死体がない。王県丞と執行人はとがめを恐れてそのことをかくし、刑が執行されたと報告した。はからずも子雄が江西に逃げて別の事件を起こして捕らえられ、そのため刑の執行の不備が明るみになったのであった。


浙江巡撫が子雄の身元確認のために身柄を開化に送らせた。親族と対面させたところ、子雄であることを認めた。王県丞と執行人はわいろを受け取って死刑囚を逃がしたわけではなかったので、それ以上の追及されることはなかった。子雄の身柄は江西に戻され、王県丞と執行人は厳重な処罰を受けた。



(清『聴雨軒筆記』)