神筆

魯(山東省)に廉広(れんこう)という人がいた。泰山(たいざん)に薬草を採りに入って風雨に遭い、大木の下で雨宿りをした。雨は夜半になってようやく止み、足の向くままに歩き出したところ不思議な人と出会った。俗世を離れた隠士のようであった。


「夜中にどうしてこのようなところにおられるのかね?」


その人は廉広を手招き、ともに林の中に座り込んだ。


しばらく話していると、その人は唐突にこんなことを言い出した。


「わしは画がうまく描けるので、ひとつ、お前さんに描き方を教えて進ぜよう」


唐突なことで、廉広は何と答えてよいかわからず、ただ、


「はあ……」


と答えるしかなかった。


「お前さんに筆を一本、さし上げよう。この筆さえあれば、どんな画でも思いのままに描けるぞ。その上、描いた画には命が宿るのじゃ。ただし、この筆を持っておることを、誰にも知られてはならぬぞよ」


その人はそう言って、懐から五色に輝く筆を取り出した。廉広が受け取り、うやうやしくお辞儀をして顔を上げると、すでにその人は姿を消していた。


山を降りてから画を描いてみると、その人の言った通りであった。廉広は用心して、人前で軽々しく画を描くようなことはしなかった。


後に、廉広は所用で中都県(山東省)を訪れた。県知事の李なにがしは画の愛好家であった。どこで聞きつけたのか、李知事は廉広が画の名手であることを知って招き寄せ、丁重に酒を飲ませて画を一幅所望した。廉広は秘密を守るために何も答えなかったが、李知事がしきりに頼むので、やむを得ず、官舎の壁に百あまりの鬼兵が出陣するさまを描いた。


しばらくして、このことを知った趙県尉が、廉広に画を所望した。廉広は趙県尉の官舎の壁に百あまりの鬼兵を描いた。


その夜、不思議なことが起こった。鬼兵が壁を抜け出して激しい戦闘を繰り広げたのである。


一部始終を目にした李知事と趙県尉は震え上がり、鬼兵の描かれた壁を壊した。廉広は罰を恐れて、下ヒ(かひ、江蘇省)県へ逃れた。


下ヒ県知事も廉広が画の名手であることを知ると、招いて画を描くよう所望した。


廉広はまた前のようなことが起こることを恐れた。そこで、県知事にすべて打ち明けることにした。


「私はある夜、たまたま神仙と出会い、画を描く方法を伝授されました。しかし、私はあえて画を描くことはいたしませんでした。なぜなら、私が筆を執って描けば、必ず怪異なことが起こるからでございます。どうか、私に筆を執らせないで下さいませ」


しかし、県知事は承知しなかった。


「中都では出陣する鬼兵を描いたから騒動が起こったのです。ほかのものを描けば、何事も起こりますまい。そうですな、龍を一匹描いて下さい。一匹だけなら、争うこともないでしょう」


廉広は仕方なく筆を執り、官舎の壁に見事な龍を描いた。もう少しで描き上がるという頃、突然、あたりに雲や霧が立ち込め、大風が吹き荒れた。龍は画から抜け出して雲に乗って天へ舞い上った。それから下ヒ県では何日も大雨が降り続け、洪水が民家を押し流した。


廉広は妖術使いとして捕らえられ、牢獄に繋がれた。


廉広は何度も県知事の厳しい尋問を受けた。その都度、妖術使いであることを否定したのだが、雨はますます激しく降り続け、県知事の怒りもますます激しくなった。廉広は獄内で泣きながら無実を訴え、神仙に救いを求めた。


この夜、廉広の夢に神仙が現われた。


「一羽の大鳥を描き、それに乗って逃れれば、災いを免れるぞ」


廉広は目覚めると、夜明けになるのを待って牢獄の壁に大鳥を描いた。


「出でよ」


一喝すると大鳥は翼を羽ばたかせて、画から抜け出した。廉広はその背に乗って、獄から飛び去った。


大鳥は廉広を乗せてまっすぐ泰山へ向かった。廉広は泰山で大鳥の背から降りた。しばらくして、神仙が廉広の前に現われた。


「約束を守らなかったから、災いを招いたのだぞ。お前さんに筆を与えたのは、福をもたらしてやろうと思ってのことだったのに。人間とは口の軽いものじゃな。さあ、筆を返してもらおうか」


廉広は懐から筆を取り出して神仙に還した。神仙は筆を受け取ると、またたく間に姿が見えなくなった。


以来、廉広は画が描けなくなった。廉広が龍を描いた下ヒの壁も、ただの泥壁に戻った。



(唐『大唐奇事』)



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