蝿
いつも蝿が酒の匂いにつられて飛んで来ては樽に落ちて溺れた。この酒屋の杜氏(とうじ、酒造りの職人)はもともと信心深かったので、蝿を見つけた時は必ず救い上げ、灰で体を乾かしてから逃がしてやっていた。
数年間で救われた蝿は数え切れないほどであった。
ある時、この杜氏が他人の罪に連座して死刑に処せられることになった。
裁判官が死刑執行の書類に署名しようとすると、どこからか一匹の蝿が飛んで来て筆の軸にとまってジッとしている。署名するのに邪魔なので追い払うと離れるのだが、筆の周りをブンブン飛び回るのであった。もう一度署名しようとすると、また蝿がとまった。
初めはただの偶然かと思っていたが、三度四度と続く内に裁判官の頭の中には疑念が浮かんできた。もしかして、この杜氏は冤罪ではないだろうか。このまま処刑してよいのであろうか。もし無実なら……。
そこで、裁判のやり直しをしようと手続きを取り始めた矢先、たまたま大赦(たいしゃ)となり、杜氏は釈放された。
蝿は取るに足らない小さな生き物であるが、恩義を感じる心に体の大小はないのであろう。
(元『湖海新聞夷堅続志』)
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