子供の頃、犬を飼っていた。進宝と名付けていつも側においていた。塾に通うようになってからも進宝を連れて通った。


ある日、進宝を机の上に坐らせたまま勉強していると、進宝はじっと本をのぞき込み、私の読む声に耳を傾けているように見えた。時折、うなずきもした。もしかして、言葉がわかるのかもしれないと思い、試しに紙に、


「進宝は塾に入るのを許さず」


と書いて塾の私の席に貼っておいた。翌日、いつも通り塾の私の席にやって来た進宝はその紙を認めてじっと見つめた。そして、大きくため息をつくと(そのように見えたのだが)うなだれて尾を引きずりながら出ていった。


それから半月の間、塾に近づこうともしなかった。


「塾に来てもよいぞ」


と声を掛けて初めて進宝はまた塾にやって来るようになった。あまりにも珍しいので、進宝に「慧児(けいじ)」という字(あざな)を与えた。


紙に書いて見せてやった時の進宝の喜びようと言ったらなかった。尾を振り、頭を振り、喜びを体中で現わしていた。まるで、大先生から号をもらった文人のようであった。


以来、進宝はそこいらの犬とは段違いの風格を身につけていった。食事の時には器を選び、眠る時にも場所を選ぶようになった。散歩で外へ連れ出した時も、並の犬など眼中にないよう。残り物などをぞんざいに与えようものなら、そっぽを向いてしまい、何日も食事をとろうとしなかった。


近所の周孝廉が進宝の噂を聞きつけ、自分の所で飼っている牝犬を娶せてくれた。しかし、進宝は牝犬に近寄ろうともしない。食事も寝るのも別でああった。


進宝は塾の中で過ごすのを好んだ。床にゴロリと横になって書棚の本を見張っているのである。


後に、祖父について外地へ行くことになった。さすがに犬を連れていくことはできないので、進宝は家に残していった。時折、老僕に家の様子を見に行かせたが、決まって進宝は老僕の衣の裾をくわえて、物問いたげな目つきをし、私からの手紙を見せると、うれしそうに尾を振ってようやく衣を放すとのことであった。


外地に出てから二十年になろうとする頃、進宝はもうろくしたのか盛んに吠えるようになった。不思議なことに粗衣を纏った者は尾を振って跳び回って歓迎し、華美な服装の者には狂ったように吠えかかるのであった。


家からの手紙でこのことを知り、進宝の振る舞いは畸士(きし)と呼ばれる人達と比べても遜色がないと思った。しかし、畸士で終りを全うしたものはいない。進宝も自ら災いを招かなければよいが、と心配していた。


半年も経たない内に家から手紙が届いた。それは進宝の死を知らせるものであった。東隣の住人に竹弓で射られたという。家人は私が進宝をいたく可愛がっていたのを知っていたので、庭の桑の樹の根方に遺骸を埋葬した。墓石には「識字犬」と大書した。例の周孝廉からもらった牝犬も進宝が死んでからというもの、毎日鳴き叫び続けて遂に塀に頭から突進して死んでしまった。手紙にはそう書かれてあった。


手紙を読み終えた私は進宝と牝犬の節操の堅さが哀れになった。


「生きている間は離れていても死んだ後には同じ墓に葬られたいというのか」


そこで、家人に手紙で牝犬を進宝の墓に丁重に葬るよう命じた。



(清『諧鐸』)