雷州の太守

広東(カントン)の雷州は最果ての地である。明の崇禎(すうてい)年間(1628〜1644)はじめに、金陵(南京)の高官が郡の太守として雷州へ赴任することとなった。息子を金陵に残し、妻と娘を連れて水路、雷州へ向かった。その途中、盗賊の一団に襲われ、妻と娘をのぞいて太守と従者達はすべて殺された。盗賊達は仲間の中で最も賢く、押し出しの立派な者を選んで太守に成りすまさせ、残りの者達はそれぞれ従者に扮した。そして、妻と娘を脅しつけた。


「お前達、死にたくなかったら、一緒に雷州への旅を続けろ」


盗賊の一団は辞令を手に新太守の一行として雷州入りをした。雷州には新太守を見知った者はおらず、誰にも偽者であることを見破られなかった。


一月あまりが過ぎると、新太守は何事にも公正で、行政にも手腕を発揮した。雷州の人々はよい太守が来た、とおおいに喜んだ。部下も監司使(かんしし、役人を監察する職務)も太守に尊敬を払った。


着任後しばらくして、太守は雷州に金陵の人間が入ることを禁じる法令を発した。禁を犯す者があれば、一族郎党にいたるまで罪に問うというものであった。すでに人々はすっかり太守に信服していたので、この奇妙な禁令に少しも疑問を抱かなかった。


しばらくして、本物の太守の息子が金陵から雷州へやって来た。息子が州境に入って宿を探したのだが、どこも泊めてくれない。事情を問うと、


「ここでは金陵から来た人を泊めてはならんのです」


とのこと。どうして父がこんなことを、と不審に思った。


翌朝、息子が郡の役所へ様子を見に行くと、


「太守のお出ましー」


と、太守の外出を呼ばわる声が聞こえた。息子は人々に混じって様子をうかがうと、見知らぬ男が太守と呼ばれているではないか。息子が隣にいる男に太守の姓名も出身地をたずねてみれば、間違いなく父と同じである。しかし、目の前を歩いていく太守は姿かたちは父とは似ても似つかない男であった。


「もしや、誰かに殺されたのでは?」


息子はあえて事実を暴くことはせず、ひそかに監司使のもとを訪れ、すべてを打ち明けた。監司使は言った。


「明日、太守を酒宴に招いて、その方と対面させよう」


翌日、監司使は役所を兵士に取り囲ませ、酒席にも目立たぬように兵士を配置した。太守が酒席につくと、監司使は言葉巧みに酒を勧めた。そして、頃合いを見計らって、息子を呼んで対面させた。太守にはそれが誰だかわからなかった。


「はて、こちらはどちらでしょうか?」


監司使の合図に応じて隠れていた兵士達が飛び出し、偽太守を縛り上げた。同じ頃、役所にも兵士が突入して、一味を捕らえようとした。一味は数十人もおり、乱戦になった。攻め手がひるんだすきに一味は逃げ去り、捕らえることができたのは七人だけであった。


偽太守と捕らえられた一味は金陵に送られ、処刑された。この時、はじめて雷州の人々は自分達が崇拝していたのが、太守に成りすました盗賊であることを知った。



(清『諾皋広記』)