うっかり
臨済(りんせい、山東省)の県知事李回(りかい)の妻の張氏は盧州(ろしゅう、安徽省)長史(州の属官)の娘であった。父親は長年、長史を務めたが、高齢を理由に辞職して故郷で隠居生活を送っていた。
この張老人、隠居の身となった途端、暇を持て余してしまった。それでも始めのうちは庭の木をいじったり、読書をしたりして過ごそうと思ったのだが、実際やってみるとすぐに腰が痛み、目がショボショボして長続きしない。そんなわけで時間ばかり余るようになった。そうすると、今度は家人のやることなすことが目についた。自然と口うるさくなり、当然のごとく家人からは煙たがられた。
「そういえば近頃、全然帰ってこないではないか」
張老人が言っているのは李回のもとに嫁いでいる娘のことである。
「さあ、あちらの方で帰らせてくれないのではありませんか」
母である張老人の妻はたいがいに答えて、そのまま用事を思い出してどこかへ行ってしまった。
「むむっ、李の小伜め、わしの娘をないがしろにするとは……けしからんことだ!」
張老人はいきり立って杖を引っつかむと、下僕を一人連れて飛び出していった。この下僕、主人には忠義なのだが、少々頭がぼんやりしていた。
「あんな男に大事な娘などやるんじゃなかったわい。出世の見込みもなさそうだし、何より娘を部屋から一歩も出さないようではないか。今頃、あれはどんな目に遭わされておるのだろう、飯は食わせてもらっておるのやら」
老人の怒りにかられた発言に、ぼんやりした下僕は一々うなずいた。
「そうですだ、そうですだ」
張老人は怒りで目がくらみ、下僕は頭がくらんでいたため、あろうことか道を間違えてしまった。二人がたどっているのは近隣の全節(ぜんせつ)県へ通じる道であった。
「許さん、許さん、許さんぞ」
全節県の城門を潜ったが、怒り心頭の老人は自分の過ちに気づかなかった。県庁の前に来ても、こういう役所の造りはどこも似通ったもので、老人は臨済県庁だと疑わなかった。門番に、
「県知事殿はおられるか」
と尋ねたところ、
「おられます」
との答えが返ってきた。
「ならば通るぞ」
張老人は門前に下僕を残し、一人で広間の前まで入り込んだ。老人は扉の前に仁王立ちになって、口汚く罵りはじめた。
全節県の県知事趙子余(ちょうしよ)は広間で執務していたのだが、これを聞いても何のことやらさっぱりわけがわからない。そっと扉の隙間から覗いて見れば、一人の老人が怒りに震えながら思いつくかぎりの悪態をついている。ちなみにこの全節県は狐がたくさんおり、よく人を化かした。趙子余は張老人のことをてっきり狐だと思い込んでしまった。そこで、捕り手を呼び寄せると、張老人を縛り上げて鞭打たせた。張老人はまだ自分の間違いに気付かず、なおも罵った。
「こ、こ、この、腐れ外道め……。女房を虐待するだけでは飽き足らず……その父親まで……こんな……」
老人がへたばるまで鞭打ってから、趙子余は尋問した。
「私はそなたと面識はないはずだ。一体、どこの誰だ? なぜ私を罵るのだ?」
「県知事の李回はわしの娘婿じゃ。回がわしの娘をないがしろにしておるので、叱りつけてやろうと思ってきたのじゃ」
ようやく趙子余にも、張老人にも全てが誤解だとわかった。そこで下僕を呼び入れ、張老人を客間に通し、医者に手当てさせたのであった。
これで全てが終わればよかったのだが、困ったことが起きてしまった。あの薄らぼんやりした下僕が事情を理解しかねて、夜中に臨済県へ逃げ出して李回に張老人が一大事だと告げたのである。
話を聞いた李回はひどく立腹し、数百名の下役を武装させると全節県を攻撃させた。趙子余の方ではすっかり怯えてしまい、県城の門を固く閉じて出てこようとしない。業を煮やした李回は上級組織である郡に訴え出た。郡の太守は趙子余を召喚して事情を問いただすと、全ては誤解から始まったことだとわかった。そこで、趙子余が銭二十万貫を賠償として張老人に支払うことで和解させた。
和解が成立した後、李回は張老人を臨済県に引き取った。張老人は婿が自分のために報復してくれたのが嬉しくてならず、道々、
「よい婿に恵まれた。娘は果報者じゃ」
と大喜びであった。老人は娘婿に憤って臨済県に行こうとしたことなどすっかり忘れていた。娘に会ってみると元気だったので、足取りも軽く家へ帰って行った。
(唐『紀聞』)