柔福帝姫

靖康(せいこう)二年(1127)、宋の都開封(かいほう、河南省)は金軍の猛攻の前に陥落した。そして、徽宗、欽宗二帝以下、后妃、皇族、官吏、技術者などが捕虜として北方の極寒の地へ連行されることとなった。皇族でこの危難をまぬがれたのは康王(こうおう)趙構(ちょうこう)と先帝の廃后(はいこう)孟(もう)氏だけであった。後に康王趙構は建康(けんこう、南京)で即位する。これが高宗である。


三年後の建炎(けんえん)四年(1130)、高宗の前に一人の女が現われた。女は自ら、「柔福(じゅうふく)」と名乗った。柔福とは高宗には腹違いの妹にあたる柔福帝姫(じゅうふくていき)のことで、開封が陥落した折、金軍によって北方へ連行された皇族の一人であった。


「ひそかに手引きする者があり、逃げてまいりました」


高宗が古くから宮中に仕える数少ない宮人に命じてこの女と対面させたところ、容貌も似ており、また宮中の旧事もよく憶えている。ただ一つ不審なことは足が大きすぎることであった。女は落ち着いた様子で、


「金の蛮人どもに、牛や羊のように追い立てられ、裸足で万里も歩かされました。宮中で暮らしていた時と違って当然です」


と言うと、さめざめと泣いた。


高宗は宮人から報告を受けると、妹がなめた辛酸に涙を落とし、疑いを解いた。ほどなくして詔(みことのり)が下り、女は福国長公主(ふくこくちょうこうしゅ)として入宮することとなった。続いて婿選びが行われ、福国長公主は帝妹として高世栄(こうせいえい)に降嫁(こうか)した。あわせて化粧料として毎年一万八千貫が下賜されることとなった。


十二年後の紹興(しょうこう)十二年(1142)、金との間に講和条約が成立し、高宗の生母である韋(い)氏が帰還した。その韋氏の口から驚くべき事実が告げられた。


「蛮人どもはそなたが偽者を妹と認めた、と笑っておりますよ。柔福ならばとうの昔に亡くなっておりますのに」


一方、福国長公主は韋氏が帰還すると、病と称して宮中に出てこようとしなかった。早速、捕らえられて獄に下された。厳しい詮議(せんご)により、女の正体は尼僧であることがわかった。


かつて宮中に仕えていた女官と知り合い、


「柔福帝姫様によく似ている」


と言われた。それだけですめばよかったのだが、この女官は尼僧に宮中の事情をつぶさに教え、帝姫に成りすますようそそのかしたと言うのだ。結局、この女官が誰であるかはわからずじまいであった。


偽の柔福帝姫は死刑に処せられた。この偽者に高宗が下賜した金額は合計で四十七万九千貫に上ったという。韋氏が帰還しさえしなければ、偽者は帝妹としての栄華は一生続いていたのであろう。



(宋『鶴林玉露』)