蟻の王

呉(ご)の富陽(ふよう)県(浙江省)の董昭之(とうしょうし)が船で銭塘江(せんとうこう)を渡った。江の中ほどまで来たところで、水に浮いた葦の上に一匹の蟻がいるのを見かけた。蟻は葦の端まで行っては戻ることを繰り返していた。


「死ぬのがこわいんだな」


昭之は蟻のいる葦に紐をつけて船にすくい上げた。それを見た船の同乗者達は罵った。


「これは毒虫だぞ。船に乗せたら、踏みつぶしてやる」


そうこうしているうちに船は岸に着き、蟻は紐を伝って岸に上がった。


その夜、昭之の夢に黒衣をまとった人が現われた。黒衣の人は百人ばかりを引き連れて、昭之に礼の言葉を述べた。


「私の不注意から水に落ちたところを、あなた様に助けていただきました。私は蟻の王です。もしも危難に見舞われた時には、私をお呼び下さい」


それから十年あまりが経った。江東の各地を盗賊が暴れ回った。昭之は余杭山(よこうさん)を通りかかった時、盗賊の頭目と間違われて捕らえられ、余姚(よよう)県の獄に繋がれた。


昭之は蟻の王の夢を思い出した。しかし、どうやって助けを求めたらよいのかわからなかった。昭之が思い悩んでいると、同じ牢に繋がれた囚人がその様子に気づいてたずねてきた。


「さっきから何を考え込んでいるのかね?」


そこで、昭之は蟻の王のことを話した。


「しかし、どうやって助けを求めたらよいのかわからんのだよ」


すると、その囚人は言った。


「そこらにいる蟻を二、三匹手の平に載せて、心の中で祈ってみたらどうかね」


昭之がその言葉の通りにすると、果たして夢に黒衣の人が現われた。


「急いでここを出て、余杭山に逃げるのです。すぐに天子の大赦(たいしゃ)が下りますから、それまで隠れているのですよ」


昭之が目覚めると、蟻が足かせに群がって食い切った。昭之はこっそり獄を抜け出し、銭塘江を渡って余杭山に逃げ込んだ。ほどなくして天子の大赦に遇い、昭之の冤罪も帳消しとなった。



六朝『斉諧記』)