六朝

公孫聖

呉王夫差(ふさ)が大臣の公孫聖(こうそんせい)を理由もなく殺した。 後に呉は越に攻められ、夫差は敗走した。彼は側近の太宰[喜否](たいさいひ)に言った。 「昔、公孫聖を殺して死体を余杭山(よこうさん)の麓に捨てた。このまま行けば、そこを通ら…

下男と下女

建徳(浙江省)の虞敬(ろけい)という人が厠に入ると、草を手渡す者があった。不思議なことにその者の姿は見えなかった。このようなことが一度だけでなく、たびたびあった。ある時、虞敬はいつものように厠に入ったのだが、誰も草を渡す者がない。しばらく…

柏の枕

焦湖に廟がある。そこの廟守が柏で作った枕を持っていた。かれこれ三十年ばかりになる年季物で、後ろはひび割れて穴があいていた。 単父県(ぜんぽけん、山東省)の湯林という人が行商の途中、ここに立ち寄りお参りをした。他の参拝客はおらず、廟守が一人暇…

伯裘

南朝宋(420〜479)の時のことである。 酒泉郡(甘粛省。しかし、宋に酒泉郡はない)では太守が着任して間もなく死ぬという不思議な事件が続発した。 何人かの太守が不審な死を遂げた後、渤海(ぼっかい)の陳斐(ちんはい)に酒泉太守の辞令が下った。呪わ…

それ

宋の元嘉元年( 424)のことである。南康(なんこう)県(江西省)の区敬之(おうけいし)が息子とともに小舟で県城から川をさかのぼり、小さな谷川の奥深くに入り込んだ。谷は険しく、人がまだ足を踏み入れたことのないようなところであった。日が暮れたの…

郭璞

晋の中興(東晋の成立)のはじめに、郭璞(かくはく)は卦で自分が不吉な最期を遂げることを知った。 ある時、建康(現在の南京)の堤(つつみ)を歩いていて、一人の少年を見かけた。その日はたいそう寒かったが、少年は単衣(ひとえ)しか着ておらず、懐に…

丹陽の虎

丹陽(たんよう、江蘇省)の沈宗(しんそう)は県城で占いを生業としていた。 義熙(ぎき)年間(405〜418)に、左将軍の檀侯(だんこう)が丹陽の姑孰(こじゅく)に駐屯した。檀侯は狩りを好み、特に虎狩りを盛んに行なった。 ある日、沈宗のもとを一人の…

鶴の恩返し

[口會]参(かいさん)は母親に孝養を尽くしていた。ある時、[口會]参は矢で射られた鶴を見つけた。かわいそうに思った[口會]参は連れ帰って傷の手当てをし、傷が癒えると、放してやった。 しばらく経ったある夜、鶴はつがいで戻ってきた。それぞれくち…

南康(なんこう)ウ都県(江西省)の西の川沿いに洞窟があった。夢口穴(むこうけつ)と呼ばれていた。 昔、ある船頭が全身黄色づくめの衣をまとった男と出会った。男は黄色い瓜を入れた籠を二つ担いでいた。 「夢口穴まで乗せてくれんかね」 男はそう言って…

始皇帝と海神

斉の鬲城(れきじょう、山東省)の東に蒲台(ほだい)がある。ここは秦の始皇帝が休んだところだといわれる。その時、始皇帝が台の下に、蒲で馬をつないだという。今でも蒲が生い茂り、「秦始皇の蒲」と呼ばれている。 始皇帝は石橋を架けて海を渡り、太陽の…

三頭の馬と一つの槽

曹操は司馬懿(しばい)の息子達が曹氏に忠義でないのではないかと疑っていた。また、かつて三頭の馬が一つの槽(おけ、槽《そう》は曹と同じ音)から飼い葉を食べる夢を見たこともあって、ますます司馬氏を憎んだ。 そこで、息子の曹丕(そうひ、後の魏の文…

名犬的尾

晋の太興(たいこう)二年(319)のことである。 呉地方の華隆(かりゅう)という人は猟を好んだ。一匹の猟犬を飼っており、的尾(てきび)と名付けて常に猟に連れて行った。 その日、華隆は舟で揚子江の岸辺に葦(あし)を刈りに行った。華隆は舟に従者を残…

小夫人と千人の戦士

昔、恒水(こうすい、ガンジス川のこと)の上流に一国があった。その王の小夫人が肉塊(にくかい)を産み落とした。大夫人は妬んで、 「不祥(ふしょう)の兆しを産み落とした」 と言って、肉塊を木箱に入れて恒水に捨ててしまった。 下流の国の王が恒水のほ…

羊になる

都のある士人の妻はたいそう嫉妬深かった。ささいなことで悋気(りんき)を起こしては夫を罵り、ひどい時にはむちで打った。そして、いつも夫の足に長い縄を結びつけ、用のある時にはこの縄を引っ張って呼んでいた。 これにたまりかねた夫はひそかに出入りの…

蟻の王

呉(ご)の富陽(ふよう)県(浙江省)の董昭之(とうしょうし)が船で銭塘江(せんとうこう)を渡った。江の中ほどまで来たところで、水に浮いた葦の上に一匹の蟻がいるのを見かけた。蟻は葦の端まで行っては戻ることを繰り返していた。 「死ぬのがこわいん…

陳敏

陳敏は江夏(こうか、湖北省)太守となった時、宮亭廟(きゅうていびょう)に銀の杖を奉納することを約束した。ところが、実際に奉納したのは、鉄の杖に銀を塗ったものであった。 このことに気づいた廟の巫人(ふじん)は、 「陳敏の罪は許せぬ」 と言って杖…

独角

独角は巴郡(はぐん、四川省)の人である。数百歳になると思われたが、その名前はすっかり忘れ去られていた。 頭のてっぺんに角が一本生えていることから、独角(どくかく)と呼ばれていた。 独角は何年もの間、姿を消していたかと思うとふらりと舞い戻って…

小人達

漢の武帝が未央(びおう)宮に群臣を集めて宴会を開き、ご馳走を箸に挟んで口に運ぼうとした時、かすかに人の声が耳に入った。 「爺いめが、お恐れながらお願い申し上げたき儀がござりまする」 帝が辺りを見回したが、姿は見えない。あちこち探させると、よ…

朱子之の家の幽鬼

東陽郡(浙江省)の朱子之(しゅしし)の家にはいつも幽鬼が現われた。別に悪さをすることもなかったので、家族は普通の人間と同じように接していた。 朱子之の息子が胸の病を患い、たいそう苦しんだ。幽鬼が言った。 「虎の睾丸を焼いて飲ませれば、すぐに…

呼ぶ声

元嘉九年(424〜453)のことである。 南陽(なんよう、河南省)の楽遐(がくか)という人が部屋で坐っていると、突然、空中から夫婦の名を呼ぶ声が聞こえてきた。 不思議な声は真夜中まで続いて、ようやくやんだ。楽遐は驚きとともにおそれを抱いた。 数日後…

南康(なんこう、江西省)に任考之(じんこうし)という人がいた。この人が舟に使う材木を切り出している時、社(やしろ)の神木の上に一匹の猿がいるのを見つけた。 猿の腹は丸くせり出し、どうも身重のようである。考之は面白半分に木によじ登ると、この猿…

卵白

梁の頃のことである。沐浴(もくよく)の時に、いつも卵白で髪を洗っている人がいた。 「卵白で髪を洗うと、艶がよくなる」 とのことで、沐浴のたびに二、三十個もの鶏卵を使っていた。 その人が息を引き取る時、髪の中から奇妙な音が聞こえた。まるで数千羽…

山中の美女

後漢の永平五年(62)のことである。 会稽(かいけい、浙江省)の劉晨(りゅうしん)と阮肇(げんちょう)という人が、薬草を採りに天台山へ入ったところ、道に迷ってしまった。 山の中をさまようこと十三日に及んで持参した食糧も尽き、もうだめだと観念し…

銭がこわい

南朝宋の大明三年(459)に、王瑤(おうよう)が都で死んだ。王瑤の死後、家には幽鬼が現われるようになった。 それはひょろ長くて色が黒く、肌脱ぎに犢鼻褌(とくびこん、ふんどしの一種)を締め、いつも家に来ては歌ったり、人の口まねをしたりした。それ…

絵姿

顧長康(こちょうこう、東晋の大画家顧緂之《こがいし》、長康は字)は江陵(こうりょう、湖北省)で一人の娘を愛した。娘も愛情をもって応えてくれた。短い逢瀬(おうせみ)を終えて、娘は帰っていった。 娘が立ち去った後も、長康は娘のことを思い続けた。…

李清

李清(りせい)は呉興(ごこう、浙江省)の於潜(おせん)の人である。大司馬府参軍督護(だいしばふさんぐんとくご)として桓温(かんおん)に仕えていた。 勤務中に病にかかり、帰宅して死んだのだが、本人は自分が死んだことに気づかなかった。伝令が幡(…

虎の厄

東晋の孝武帝(こうぶてい)の生母李太后は低い身分の出であった。簡文帝(かんぶんてい)には子供がなく、かつて占い師に宮女の人相を見せて、 「子供を産みそうな女はおらぬか」 とたずねた。占い師はざっと見渡して言った。 「そのような女はおりませぬ」…

おしろい

あるところに金持ちの御曹司がいた。一人息子ということで両親は非常に可愛がっていた。この若者がある日、市場を通りかかった。市場は野菜を売る人、肉を売る人、着物を売る人、道具類を売る人、そして買物に来た人でごった返していた。若者はめったに市場…

見えない子供

呉(ご)の左中郎、広陵の相である胡煕(こき)には胡中(こちゅう)という娘がいた。婚約が決まり、嫁入りを待っている間に、胡中が突然身ごもった。相手は誰かと問いつめても、胡中自身にも心当たりのないことであった。 胡煕の父親の胡信(こしん)はたい…

遺言

隗昭(かいしょう)という人は易(えき)に長けていた。 ふとしたことで病みつき、あらゆる手を尽くしたが回復の見込みがなかった。臨終に際して隗昭は妻に何やら書きつけた札を渡して言った。 「私が死んだら生活は大変になるだろう。しかし、どんなに困っ…