紫雲観の女道士

唐の開元二十四年(736)の二月、玄宗は洛陽に行幸した。当時の河南尹(いん、長官)は李適之(りせきし)であった。


その日、洛陽一帯では大風が吹き、玉貞観に一人の女道士が飛ばされてきた。その噂を聞きつけて参拝客が集まり、玉貞観(ぎょくていかん)には山のような人だかりができた。


李適之はこのことを知ると、女道士を逮捕した。李適之は女道士が人心を惑わしたと激怒し、肌脱ぎにしてむち打った。むち打ちが十回に及んでも、女道士は許しを請おうともしない。その肌には傷一つなければ、顔色一つ変えないのである。


これには適之の方が驚いてしまった。洛陽に滞在している玄宗に上奏したところ、勅命で女道士を宮中に迎えることなった。


洛陽に来た理由を問われて、女道士はこう答えた。


「私は蒲州(ほしゅう、山西省)の紫雲観(しうんかん)の女道士でございます。穀物を断って久しく、体が軽くなりました。そこへ大風が吹いてまいり、ここまで飛ばされてきたのでございます」


玄宗は女道士が常人でないことを知ると深く畏敬の念を抱いた。金帛を贈り、護衛をつけて丁重に蒲州へ送還した。


数年後、再び大風が吹いた。女道士は風に乗って飛び去り、二度と戻ってこなかったという。



(唐『紀聞』)