玉女

唐の開元年間(713〜741)のことである。華山(陝西省)の雲台観に玉女(ぎょくじょ)という下女がいた。四十五歳の時、大病を患い、全身に腫れ物ができ、つぶれて悪臭を放った。観中の人々は病がうつることを恐れて、玉女を山奥深くの谷川の近くに捨てた。玉女は激しい痛みにうめき苦しんだ。そこへ道士通りかかりが、遠くから三、四株の草を投げてよこした。草は青菜によく似ていた。


「がまんしてそれを食べるのじゃ。すぐに治るからな」

玉女は言われたとおりに草を食べた。すると、痛みが和らぎ、十日もしないうちに、全身の腫れ物はうそのようによくなった。


病が治ったばかりの頃、玉女は飲食も忘れて山中を遊び歩いた。彼女は一箇に留まることを好まず、また、世間との接触も好まなかった。雲台観の近くにも寄りつこうとしなかった。観中の人々は玉女の生死は別として、とうの昔に姿を消してまったものと思っていた。そのため、谷川に彼女を訪ねようとする者もいなかった。玉女は山中を歩き回り、のどが渇けば泉の水を汲んで飲み、空腹になれば木の実を食べた。


しばらくして、玉女は巌(いわお)の下で、草をくれた道士と再会した。道士は言った。


「病も治ったことだから、これ以上、俗世に留まることもあるまい。雲台観の西二里(当時の一里は約560メートル)のところに石造りの池がある。毎日辰の刻(朝八時から十時)に池へ小石を投げると、水中から一本の蓮が伸びてくる。それを抜いて食べよ。ずっと食べ続ければ、きっとよいことがあろうから」


玉女は道士に教えられたとおり、蓮を食べた。すると、体が軽くなり、自在に飛ぶことができるようになった。しばしば雲台観の人にその姿を見られたが、誰も玉女であることに気づかなかった。


このようにして数十年が過ぎた。玉女の髪は艶やかに六、七尺(当時の一尺は約31センチ)の長さに伸び、体中に緑色の毛が生え、顔(かんばせ)は白い花のように美しくなった。山中を往来する人々は空を飛ぶ玉女の姿を見ると、遠くから叩頭して拝礼した。


大暦年間(766〜779)に班行達(はんこうたつ)という書生が雲台観の西の廂房(しょうぼう)で勉強していた。行達は粗暴な気性で、いつも仏教や道教をけなしていた。


行達は玉女が毎日池に来ることを知ると、その様子を盗み見ることにした。行達が待ち構えていると、遠くの山から池に向かって小石が投げ込まれた。すると、水面に一本の蓮が生えた。しばらくして、玉女が池のそばに降り立った。玉女はその蓮を抜いて飛び去った。行達は何度もその様子をうかがううちに、毎日決まった時刻に石が投げ込まれることに気づいた。


ある日、行達は時刻より早く池に行った。いつものように小石が投げ込まれて蓮が生えた。行達は玉女が来る前に、蓮を抜き取った。やがて、玉女が池のそばに降り立ったのだが、すでに蓮が何者かの手で抜き取られていることを知ると、嘆いて飛び去った。翌日も、その翌日も、行達は玉女よりも先に蓮を抜き取った。このようにして十日ほどが過ぎた。


この日、玉女はいつもより早く池に来た。ちょうど行達が池のそばまで来たところで、蓮はまだ抜き取られていなかった。玉女は行達の前に降り立ち、先に蓮を抜こうとした。すると、突然、行達は玉女の丈なす黒髪をつかんだ。玉女は飛んで逃げようとしたが、髪をつかまれているので飛ぶことができない行達は玉女を抱きすくめて、手込めにしようとした。玉女は泣き叫んで抵抗した。しかし、相手の力にはかなわず、とうとう汚されてしまった。行達は玉女を一室に閉じ込めた。


翌日、行達が様子を見に行くと、玉女は白髪頭の老婆になっていた。ひどく病み衰え、身を起こすこともできない。目もよく見えず、耳も聞こえないようであった。


驚いた行達は観中の人々を集めて、玉女が一晩で老婆に変わったことを話して聞かせた。人々は玉女のもとへ来ると、いきさつをたずねた。玉女の口からこれまでのことが語られた。観中には玉女のことを伝え聞いている者がおり、それによれば、玉女はすでに百歳あまりになるという。


人々は玉女を憐れに思い、皆で相談して自由の身にしてやった。一月足らずで、玉女は死んだ。



(唐『集異記』)