『金瓶梅』異聞

明の王世貞(おうせいてい)の父親は尚書の唐順之(とうじゅんし)と不仲であった。順之は権力を握ると、口実を設けて世貞の父親を捕らえ、獄に下して殺した。父が殺された時、世貞はまだ幼かった。


後に世貞は優秀な成績で進士となり、翰林院(かんりんいん)に入った。この時の試験官は順之であった。順之は世貞の才能を愛し、まるで実の甥のように接した。世貞はうわべこそ親しげにふるまったが、内心は父の仇として順之を深く怨んでいたそして、ついに順之を暗殺するために刺客を雇った。


ある夜、順之が書斎で本を読んでいると、梁から男が飛び降りてきた。その顔つきは猛々しく、手にはギラギラ光る匕首(あいくち)が握られていた。世貞が雇った刺客であった。刺客が無言で匕首を振り上げて迫ると、順之は手を合わせて頼んだ。


「ま、待ってくれ。今夜、ここで君の手にかかって死ぬのは運命だろう。抗う気はない。ただ、死ぬ前に家族に遺書を書かせてほしい。そうさせてくれたら、思い残すことはない」


刺客は順之の願いを聞き入れ、遺書を書くことを許した。遺書を数行ほど書いたところで、筆の穂が抜け落ちた。順之は穂を接ぐふりをして、筆の軸を灯りの火の上にかざした。突然、筆の軸から針が飛び出して、刺客ののどに刺さった。針には猛毒が塗ってあり、刺客はその場で絶命した。


順之は長年権力の中枢にあり、多くの政敵を謀殺して怨みを買っていた。いつ何時、刺客に襲われても身を守れるよう、書斎内の文房具類には皆、このような仕掛けがしてあったのである。


刺客が何も言わずに死んだため、命を狙ったのが世貞であることは知られなかった。世貞は今までどおり、順之との交際を続けた。



ある冬の日、順之は世貞にたずねた。


「近頃、何か面白い読み物はないかね」

「『金瓶梅(きんぺいばい)』は面白いですよ。『水滸伝』の潘金蓮(はんきんれん)の密通を下敷きにしたものですが、たいそう目を楽しませてくれます」


これはまったくのでまかせで、『金瓶梅』などという小説は存在しなかった。世貞は順之が好色な読み物を好むことを知って、その意を迎えるために答えたのだが、案の定、順之は興味を示した。


「是非、貸してくれ」


世貞は帰宅すると、大急ぎで小説を書き上げた。そして、職人を集めて版木を作らせて本を刷り上げ、『金瓶梅』の題簽(だいせん)をつけて順之のもとに届けた。


順之は早速、書斎にこもって読みはじめた。順之には指をなめて本をめくる癖があった。特に冬の乾く時期になると、めくるたびに指をなめていた。『金瓶梅』をひもといてみると、すこぶる面白い。順之は指をなめなめ読み進んだ。あと少しで読み終えようというその時である。


「ううっ!」


順之の口からうめき声とともに、青黒くふくれ上がった舌が吐き出された。順之の指をなめる癖を知っていた世貞が、あらかじめ本の紙に毒をしみ込ませておいたのであった。すぐに毒が回って、順之は死んだ。



『明史』によれば、世貞の父親を謀殺したのは厳嵩(げんすう)である。世貞は厳嵩の死後、多くの戯曲や小説を書いて、その私生活を暴き立てて父親の仇を討った。順之と仇の関係にあった事実はない。人々がそう言い伝えてきただけである。



(清『仕隠斎渉筆』)