李載

大暦七年(772)、大理評事の李載(りさい)が監察御史を兼任し、福建の節度観察を代行した。李載は建州浦城(ほじょう)に役所を設置したのだが、浦城から建州までは七百里(当時の一里は約 560メートル)離れており、その地は瘴気(しょうき)に満ちていた。李載は瘴癘(しょうれい)を恐れ、任官を喜ばなかった。赴任から半年後、李載は死んだ。


翌々日に、李載は生き返った。家族が食事を勧めると、普段と同じように食べた。李載は食べ終わると言った。


「私はすでに死んだ身だ。今、こうして生き返ったのは、まだ仕事が残っているからだ」


李載はやり残した事務を処理して、後任への引き継ぎを済ませた。それから、吏部尚書の劉晏に宛てて手紙を書き、また家族には遺書を書いて、後事を指示した。


李載は妻の崔氏を先に亡くし、身の回りのことは一人の妾に任せていた。彼はこの妾に向かって、


「死んでから、あの世で妻に会った。私がお前のことを話すと、たいそう腹を立てて、お前を許さないと言うのだ。生きていた時も気が強かったが、気性ばかりは死んでも変わらないようだ。今日にも乗り込んで来そうな勢いだったから、ここにいては危ない。早くどこかへ行け」


と言うと、いくばくかの財産を与えて、行官(四方へ使いに出る役人)に北へ送って行くよう命じた。妾はすぐに船に乗り込んだのだが、行官が出発する前に自分の用事を済ませようとして、なかなか船を出さない。李載はこのことを知ると、行官を召し出して、杖で五回打ち、即刻、出発させた。


李載はすべての仕事を終え、食事をした後、死んだ。



(唐『広異記』)



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