美貌の女師匠

明の成化(せいか)十三年(1477)七月十三日の夕暮れのことである。真定府(河北省)晋州(しんしゅう)聶村(じょうそん)の秀才高宣(こうせん)の家の門を一人の女が叩いた。女はすらりと背が高く、美貌であった。女は、


「趙州(河北省)の張林の妾です」


と名乗った。主人の虐待に耐えかねて逃げ出してきたとのことであった。高宣は女の境遇に同情し、一部屋を提供してやった。


その真夜中、高宣の娘婿の趙文挙(ちょうぶんきょ)が女の泊まっている部屋に忍び込んだ。寝ている女の口をふさいで、手籠めにしようとした。


「何をなさいます」


女が抵抗する力は、女とは思えないほど強かった。趙文挙は力まかせに女を押さえつけて、その胸元をまさぐった。女には乳房がなかった。裙子(スカート)をまくり上げて隠しどころをさぐると、立派な男の道具が
ついていた。


「お前、男か?」

趙文挙は家人を呼び集めて女を縛り上げると、役所に突き出した。



厳しい取り調べの結果、女の正体は山西太原府石州李家湾の桑冲(そうちゅう)という者であることがわかった。兵士李大剛(りたいごう)の甥に生まれたが、幼い頃に楡次(ゆじ)県の桑茂(そうも)に養子として売られ、桑姓を名乗るようになった。美貌の持ち主で、幼い頃からよく女の子にまちがわれた。


その頃、大同府山陰県の谷才(こくさい)が女のなりをし、針仕事の師匠として良家に入り込んでは、婦女を手籠めにしていた。桑冲は谷才が十八年に及びながら、司直の手を逃れていることを知ると、その技を身に着けようと志した。成化元年(1465)、大同南関の王長の家で谷才と対面を果たし、師事することにした。


桑冲は谷才のもとで眉を細くし、うぶ毛をそり落とし、女の髪型に結い上げて化粧する方法を学んだ。そして、針仕事や刺繍、切り紙、料理など、女のたしなみを身につけた。


楡次県に戻った桑冲は任茂(じんも)ら七人の弟子を取って、この技術を伝授した。桑冲はいつも弟子達にこう言っていた。


「くれぐれも正体を見破られないよう、気をつけておくれよ。一人でも捕まれば、累(るい)はあたしに及ぶのだからね」


成化三年(1467)三月に桑冲は家を出て、女になりすまして各地を放浪した。彼は入り込んだ家で、婦女の操(みさお)を奪った。その被害は大同、平陽、太原、真定、保定、順天、順徳、河間、済南、東昌、朔州、永年、大谷など四十五の府州県、七十八の郷村に及んだ。


良家に美しい娘がいると聞くと、家を逃げ出した妾や小間使いのふりをして、目をつけた家の近所に住み込み、針仕事に巧みなところを見せた。二、三日すると、評判を聞いた良家から娘に針仕事を教える師匠として招かれる。針仕事を教えて打ち解けると、夜遅くまで一緒に過ごし、艶っぽい話を聞かせて相手の好き心をかき立てて操を奪うのであった。


うまくいかない時には、しびれ薬を調合して相手の体に吹きつけ、呪文を唱えて体の自由を奪ってから犯した。薬から醒めた娘は桑冲を罵るのだが、何といっても女に化けるほどの美形であったから、娘の方でも喜んで身を任せるようになった。


桑冲は人に見破られることを恐れ、一か所に四、五日しか留まらないようにしていた。このように慎重に行動したため、十年の間に彼が犯した女の数は百八十二人に上ったが、人に知られることはなかった。皮肉にも美貌に惚れて手込めにしようとした趙文挙によって、その正体を暴かれたのであった。


女装して婦女を姦淫するという犯罪は前代未聞で、それに対する罰則は法文には見られなかった。裁きに当たった法官もどうしてよいかわからず、被害者百八十二人の名簿を帝に上奏して、その裁決を仰ぐことにした。帝は都察院にくだして見解を述べさせた。都察院の見解はこうであった。


「桑冲の犯した罪は死罪に処しても足らないほどである。供述によれば、さらに任茂らにこの奇怪な術を伝授して、四方で姦淫をほしいままにさせた。その罪は極刑に値するものである。すみやかに各地に命じて任茂らを捕縛させ、桑冲とともに罪をといただせ。姦淫された婦女に関しては、すべて本人の意志によるものではなく、また人数も多いので、追究する必要はない」


十一月二十二日に桑冲はすみやかに凌遅(りょうち)の刑に処し、任茂ら七人の弟子は身柄を拘束して都に押送(おうそう)するように、との詔が下った。



(明『庚巳編』)