夫婦愛

北宋の劉廷式(りゅうていしき)はもとは百姓であった。若い頃、隣家に住む貧しい老人の娘と婚約した。


数年後、刻苦勉励の末、廷式は見事科挙に合格した。郷里に戻り、隣家の老人を訪ねたところ、すでに老人は亡くなっていた。残された娘も病気のために両目の視力を失い、その暮らしは貧窮のどん底にあった。


廷式は娘の家へ人をつかわして正式に結婚を申し込んだ。しかし、娘の家の方では、盲人な上に百姓の身分だから士大夫に嫁ぐことなどとんでもない、と辞退してきた。しかし、廷式は頑として引き下がらなかった。


「私は爺さんと約束したのだ。爺さんが死んだから、娘が盲人だからといってその約束に背くことができようか」


そして、とうとう周囲の反対を押し切って、娘を妻として迎えた。


その夫婦仲はいたって睦まじく、出かける時には必ず妻の手を引き、その目となり、杖となった。二人は数人の子供を儲けた。


後に、廷式は些細な事件に巻き添えで連坐したのだが、妻を迎えた経緯を義と見なされて寛大な処置で済まされた。


廷式が江州(江西省)の太平宮の管理官になった時、妻が亡くなった。その嘆きぶりは並たいていのものではなかった。蘇東坡は文を作って、その情けの深さをたたえた。



(宋『夢渓筆談』)



葉薦の妻

台州浙江省)の司法、葉薦(しょうせん)の妻は嫉妬深く、残忍な性格をしていた。小間使いや下女に少しでも器量のよい者があれば、必ずむち打って痛めつけた。時には死に至らしめることもあったが、葉には止めることができなかった。


夫婦には子供がなく、葉は常々、妻にこう言っていた。


「わしも六十だ。この年になって、女色を求めようとは思わぬ。しかし、このまま子がないのは困る。妾を置いて、跡継ぎを儲けようと思うのだが、どうだろうか」


すると、決まって妻はこう答えるのであった。


「しばらく待ってちょうだい。あと何年かすれば、私にも子供ができるかもしれないわ」


しかし、何年経っても子供が生まれる気配はなく、妻も妾を置くことを承知するしかなかった。妾を置くことに決めると、妻は同じ家に住むことを拒んだ。


「よそに家を建ててください。そこで仏門に入ります」


葉は喜んで山の裏手に家を建て、妻を住まわせた。


以来、家人が朝晩、ご機嫌うかがいに出向き、食事の支度をした。妻は以前とは打って変わっておだやかになったので、葉も安心した。


ある日、葉は新たに迎えた妾に妻の様子を見に行かせた。妾は出かけたきり、夕暮れになっても戻ってこなかった。心配になった葉は杖を手に、妻の住まいへ向かった。


住まいの門は堅く閉ざされ、ひっそりと静まり返っていた。下僕に命じて門を打ち破らせると、虎と化した妻が妾の上に覆いかぶさってその体を食らっていた。妾の体はほとんど食い尽くされ、頭と足を残すだけであった。


葉と下僕は急いで戻ると、人手を集め、松明(たいまつ)をかかげて妻の住まいへ向かった。住まいはもぬけの殻であった。



(宋『夷堅志』)



玉女

唐の開元年間(713〜741)のことである。華山(陝西省)の雲台観に玉女(ぎょくじょ)という下女がいた。四十五歳の時、大病を患い、全身に腫れ物ができ、つぶれて悪臭を放った。観中の人々は病がうつることを恐れて、玉女を山奥深くの谷川の近くに捨てた。玉女は激しい痛みにうめき苦しんだ。そこへ道士通りかかりが、遠くから三、四株の草を投げてよこした。草は青菜によく似ていた。


「がまんしてそれを食べるのじゃ。すぐに治るからな」

玉女は言われたとおりに草を食べた。すると、痛みが和らぎ、十日もしないうちに、全身の腫れ物はうそのようによくなった。


病が治ったばかりの頃、玉女は飲食も忘れて山中を遊び歩いた。彼女は一箇に留まることを好まず、また、世間との接触も好まなかった。雲台観の近くにも寄りつこうとしなかった。観中の人々は玉女の生死は別として、とうの昔に姿を消してまったものと思っていた。そのため、谷川に彼女を訪ねようとする者もいなかった。玉女は山中を歩き回り、のどが渇けば泉の水を汲んで飲み、空腹になれば木の実を食べた。


しばらくして、玉女は巌(いわお)の下で、草をくれた道士と再会した。道士は言った。


「病も治ったことだから、これ以上、俗世に留まることもあるまい。雲台観の西二里(当時の一里は約560メートル)のところに石造りの池がある。毎日辰の刻(朝八時から十時)に池へ小石を投げると、水中から一本の蓮が伸びてくる。それを抜いて食べよ。ずっと食べ続ければ、きっとよいことがあろうから」


玉女は道士に教えられたとおり、蓮を食べた。すると、体が軽くなり、自在に飛ぶことができるようになった。しばしば雲台観の人にその姿を見られたが、誰も玉女であることに気づかなかった。


このようにして数十年が過ぎた。玉女の髪は艶やかに六、七尺(当時の一尺は約31センチ)の長さに伸び、体中に緑色の毛が生え、顔(かんばせ)は白い花のように美しくなった。山中を往来する人々は空を飛ぶ玉女の姿を見ると、遠くから叩頭して拝礼した。


大暦年間(766〜779)に班行達(はんこうたつ)という書生が雲台観の西の廂房(しょうぼう)で勉強していた。行達は粗暴な気性で、いつも仏教や道教をけなしていた。


行達は玉女が毎日池に来ることを知ると、その様子を盗み見ることにした。行達が待ち構えていると、遠くの山から池に向かって小石が投げ込まれた。すると、水面に一本の蓮が生えた。しばらくして、玉女が池のそばに降り立った。玉女はその蓮を抜いて飛び去った。行達は何度もその様子をうかがううちに、毎日決まった時刻に石が投げ込まれることに気づいた。


ある日、行達は時刻より早く池に行った。いつものように小石が投げ込まれて蓮が生えた。行達は玉女が来る前に、蓮を抜き取った。やがて、玉女が池のそばに降り立ったのだが、すでに蓮が何者かの手で抜き取られていることを知ると、嘆いて飛び去った。翌日も、その翌日も、行達は玉女よりも先に蓮を抜き取った。このようにして十日ほどが過ぎた。


この日、玉女はいつもより早く池に来た。ちょうど行達が池のそばまで来たところで、蓮はまだ抜き取られていなかった。玉女は行達の前に降り立ち、先に蓮を抜こうとした。すると、突然、行達は玉女の丈なす黒髪をつかんだ。玉女は飛んで逃げようとしたが、髪をつかまれているので飛ぶことができない行達は玉女を抱きすくめて、手込めにしようとした。玉女は泣き叫んで抵抗した。しかし、相手の力にはかなわず、とうとう汚されてしまった。行達は玉女を一室に閉じ込めた。


翌日、行達が様子を見に行くと、玉女は白髪頭の老婆になっていた。ひどく病み衰え、身を起こすこともできない。目もよく見えず、耳も聞こえないようであった。


驚いた行達は観中の人々を集めて、玉女が一晩で老婆に変わったことを話して聞かせた。人々は玉女のもとへ来ると、いきさつをたずねた。玉女の口からこれまでのことが語られた。観中には玉女のことを伝え聞いている者がおり、それによれば、玉女はすでに百歳あまりになるという。


人々は玉女を憐れに思い、皆で相談して自由の身にしてやった。一月足らずで、玉女は死んだ。



(唐『集異記』)



伯裘

南朝宋(420〜479)の時のことである。


酒泉郡(甘粛省。しかし、宋に酒泉郡はない)では太守が着任して間もなく死ぬという不思議な事件が続発した。


何人かの太守が不審な死を遂げた後、渤海(ぼっかい)の陳斐(ちんはい)に酒泉太守の辞令が下った。呪われた職務ということで陳斐は憂鬱になった。悶々としているうちに、容赦なく赴任の期日は迫ってくる。そこで占い師にその吉凶を見させると、


「『遠諸侯、放伯裘』と出ました。この言葉の意味を解きさえすれば、心配はありません」


と告げられたのだが、陳斐にはさっぱり意味がわからない。占い師はこう続けた。


「赴任なさればその意味はおのずからわかるでしょう」


陳斐が酒泉郡に赴任したところ、侍医に張侯、直医に王侯、事務官に史侯と董侯といういずれも名前に「侯」のつく者がいた。陳斐は占い師の言葉を思い出した。


「『遠諸侯』とは、この者達を遠ざけろ、という意味か」


そこで、この四人を遠ざけることにした。


残るは『放伯裘』である。考えてはみたのだが、とんと見当がつかない。仕方ないのでその日はもう寝ることにした。


真夜中、陳斐は蒲団の上に重みを感じて目を覚ました。蒲団の上に何かのっているようである。そこで、陳斐は蒲団をつかんでおおい被せた。ぐっと抑え込むと、その物は飛び跳ねてドンドンとけたたましい音を立てた。物音を聞きつけて、衛兵が松明(たいまつ)を手に集まってきた。衛兵が槍で突き殺そうとしたところ、その物は人語を発した。


「それがしには悪意はございません。ただ、閣下を試そうとしただけでございます。一命をお助け下されば、ご恩に報いることを誓います」


陳斐は衛兵を制止して、その物に問いかけた。


「お前は何物だ。どうして、私を襲った」


化け物はしおらしい声でこう答えた。


「私は一千歳を経た狐でございます。修行を積み、今では魅に変化いたしました。そろそろ神になる段階まできております。しかるに閣下のお怒りに触れ、今までの修行を台無しにするところでございました。私の名は伯裘(はくきゅう)と申します。もしも閣下が危難にさらされた時には、私の名前をお呼びなさい。すぐに飛んで参ります」


この答えに陳斐は大喜びした。


「ああ、『伯裘を放せ』というのはこのことだったのか」


そして、蒲団を少し開くと、その隙間から一条の赤い光が飛び出し、そのまま外へ飛び去った。


次の日の夜、門を叩く音がする。誰何(すいか)すると、


「伯裘でございます」


との答えが返ってきた。


「何用ぞ?」


「報告にまいりました。北辺で盗賊が暴れております」


早速、陳斐が調べさせると、その通りであった。


以後、何か事件が起こるたびに、陳斐は伯裘から前もって報告を受けた。


しばらくすると、酒泉の治安はすっかりおさまり、こそ泥すらもなりをひそめてしまった。住民は陳斐のことを「聖府君」と呼んだ。


一月余り後のことである。主簿の李音という者が陳斐の侍女とねんごろになった。このことを伯裘に暴露されるのを恐れた李音は、先手必勝とばかりに陳斐を殺そうと謀った。幸い同心する者がいた。それは陳斐の着任早々、退けられた張侯、王侯、史侯、董侯の四人の諸侯であった。


李音と諸侯は陳斐が一人になる時を見計らって、木刀を手に乱入して殴りかかった。


「伯裘!我を助けよ!!」


陳斐は叫んだ。それに応じて、サッと音を立てて赤い反物のような物が飛び込んできた。その途端、李音及び諸侯は失神して地に倒れ、縛についた。


取調べに際して、五人は洗いざらい白状した。


「酒泉郡の実権を握っていたのは李音です。閣下がご赴任された後、己の実権が失われるのを恐れた音は、畏れ多くも暗殺を企てました。しかし閣下は着任早々に諸侯を退けられました。それで企ては頓挫いたしたのでございます」


陳斐は李音を殺させた。伯裘は、


「李音の一件、閣下のお耳に入れるのが遅れたばかりか、閣下直々のお召しをこうむることになりました。本当にお役に立たず、申し訳ございません」


と詫びた。



それから一月余り経ったある日、伯裘は突然、陳斐に別れを告げた。


「ようやく修行が成り、これから天に上ります。閣下とお会いすることはもうないでしょう」


 そう言って姿を消した。



六朝『捜神後記』)



中国奇譚 (アルファポリス文庫)

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それ

宋の元嘉元年( 424)のことである。南康(なんこう)県(江西省)の区敬之(おうけいし)が息子とともに小舟で県城から川をさかのぼり、小さな谷川の奥深くに入り込んだ。谷は険しく、人がまだ足を踏み入れたことのないようなところであった。日が暮れたので、敬之父子は岸へ上がって、小屋掛けをして泊まった。その夜中に、敬之は突然、具合が悪くなり、そのまま帰らぬ人となった。残された息子は火を焚いて、遺体のそばで番をした。


その時、遠くから泣きながら、


「おっさぁぁぁん」


と呼ぶ声が聞こえた。息子が驚いてあたりを見回している間に、声の主はすでに目の前まで来ていた。


それは人間ほどの背丈で、もつれた髪の毛が足元まで伸びていた。髪の毛に覆われて、目も鼻も口も見えない。それは息子の名を呼んで、悔やみを述べた。息子は恐ろしくてたまらず、ありったけの薪をくべて火の勢いを強くした。すると、それは、


「わざわざお悔やみを言いに来てやったのに、何をこわがってそんなに火を燃やすのかね?」


と言って遺体の枕元に坐り込み、また泣き出した。


息子が焚き火の明かりで様子をうかがうと、それは自分の顔で死体の顔を覆った。すると、死体の顔の肉が裂けて骨が露わになった。息子は恐ろしくなった。打ちかかって追い払おうとしたが、手もとに武器がない。やがて死体の皮も肉もすっかりなくなって、骨だけになった。


それが何だったのか、今でもわからない。



六朝『祖沖之述異記』)



晏家の乳母

晏元献(あんげんけん)の家に燕(えん)氏という年老いた乳母がいた。晏家に仕えて数十年になり、家族から丁重に扱われていた。


燕氏が死んだ後も晏家では季節ごとにその霊を祀っていた。ある時、燕氏が家族の夢に現われてこう言った。


「皆様のおかげで、こちらで楽しくやっております。ただ、この婆めの世話をしてくれる者がおりませず、不便でなりません」


そこで、二人の女の画を描いて焼いた。すると、燕氏が再び夢に現われた。


「このたびは結構な賜わりものをいただき、感謝しております。しかし、あの者達はあまりにも弱々しくて、何の役にも立ちません」


そこで、今度は厚紙を芯に入れた紙に美しい下女を二人描いて焼いた。燕氏がまたもや夢に現われて、


「今度の下女はよく働き、気も利きます。これでこちらの暮らしもさびしくなくなりました」

 と、礼を述べた。


翌年の清明節(せいめいせつ)に一家で燕氏の墓参りをした。その夜、燕氏が家族の夢に現われて訴えた。


「この前いただいた下女は、この婆を見捨てて逃げてしまいました」


「一体どういうことだ?」


「こんなこと本当は申し上げたくなかったのですが、あの者どもは年が若くて浮ついているので、燕三(えんさん)にたぶらかされたのです」


燕三とは燕氏の甥で、女の尻ばかり追い回している遊び人であった。


「燕三はまだ死んでいないだろう? お前のところの下女に手を出せるはずがない」


「それがこちらに来ておるのでございますよ」


「よし、わかった。すぐに別の下女をやるからな」

翌日、家族はこの話をしておおいに笑い合った。燕三の消息をたずねると、すでに死んでいることがわかった。


そこで、今度は年老いた下女を二人描いて焼いた。燕氏は家族の夢に現われて、厚く礼を述べた。



(宋『夷堅志』)



游仙枕―中国昔話大集 (アルファポリス文庫)

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飛雲渡

温州(浙江省)の瑞安(ずいあん)に飛雲渡(ひうんと)という渡し場がある。激しい風浪がしばしば船を覆し、多くの人命が失われた。


ここ瑞安に一人の少年がいた。その行ないは奔放不羈(ほんぽうふき)で何物にもとらわれなかった。


かつて少年は占い師に自分の将来を問うたことがあった。占い師は、三十になる前に死ぬだろう、と答えた。ほかの占い師に尋ねてみても、同じ答えが返ってきた。己が早死にする運命にあることを悟った少年は妻も娶らなければ、正業につくこともしなかった。財を軽んじ、義を行うのが常であった。


少年が飛雲渡で船を待っていた時のことである。ボンヤリ眺めているところへ娘が一人、やって来た。服装から見て、どこかの家で召し使われている下女のようであった。娘は辺りを行ったり来たりしては途方に暮れたようにため息をついた。何か探しているようである。しばらく見ていると、娘は思いつめた表情で水に身を投げようとした。


「何を死に急ぐ」


少年は慌ててその袖をつかんで引き止めた。理由を問うてみたところ、娘は涙を拭きながら答えた。


「私はさるお邸にご奉公に上がっております。主人が慶事のために、お身内から真珠の耳輪を一対借りました。三十錠あまりもする高価な品です。今日、主人の命で返しに行くことになったのですが、途中で落としてしまいました。私に弁償できる品ではありません。主人に会わせる顔もなく、もう、私には死ぬしか道が残されておりません」


そう言って、再び涙を落すのであった。


「さっき、ここで耳輪を拾ったんだが、もしかしたらそれかもしれんな。落としたという耳輪の大きさはどのくらいだ? 真珠の数は? 形はどんなだ?」


娘に耳輪の特徴を問いただすと、果たして自分の拾ったものと一致した。


少年は娘を主人の家まで送っていき、事情を説明して耳輪を返した。主人はいたく感激して謝礼を送ろうとしたのだが、少年は受け取らなかった。


後日、主人は娘の不始末を理由によそへ嫁がせることにした。娘の嫁ぎ先は飛雲渡から目と鼻のところで店を営む床屋であった。


それから一年後のことである。その日は風のない穏やかな天気であったので、少年は仲間二十八人と連れ立って飛雲渡から船に乗ることにしていた。


飛雲渡の手前で一人の女と出会った。女は少年の姿を見るなり、


「あの節はお世話になりました」


と、声をかけてきた。よくよく見てみれば、耳輪をなくした娘であった。


娘は夫を呼んで以前少年に助けられたことを告げた。夫は少年を家に招き、昼飯を振る舞いたいと申し出た。少年は別段急ぐ道でもないので、仲間を先に行かせることにした。少年と別れた仲間は船に乗り込んだ。


少年が床屋夫婦のもてなしを受けていると、突然、外が騒がしくなった。船が岸を離れた途端、突風に襲われて覆り、乗客はすべて溺死したのである。その中には少年の仲間二十八人も含まれていた。助かったのは少年一人だけであった。


少年は三十歳になっても死なず、長命を保った。



(元『南村輟耕録』)



中国奇譚 (アルファポリス文庫)

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