雲英(三)

値切ってはみたものの、卞親爺は頑として首を縦にふらなかった。航は金を取りに戻ろうかとも思ったが、期限の百日に遅れる恐れがあった。そこで、連れてきた下男や馬を処分して二百貫の銭を揃えて臼と杵を買い取ると、その足で藍橋に向かうことにした。 「臼…

雲英(二)

航が興味深く見ていると、葦(あし)で編んだ筵(むしろ)の下からほっそりとした白い腕が二本現われ、小さな瓶(かめ)を差し出した。受け取って一口飲んだ航は驚いた。 その味わいはまさに甘露(かんろ)かと思われ、立ちのぼるえも言われぬよい香りが戸外…

雲英(一)

唐の長慶(ちょうけい、821〜824)年間のことである。裴航(はいこう)という秀才がいた。 試験に落第したので鄂渚(がくしょ、湖北省)へ旅に出て、旧友の崔相国(さいしょうこく)を訪ねた。航の境遇に同情した相国は二十万貫の銭を贈り、都へ帰るよう忠告…

父と子

楊元英(ようげんえい)は則天武后の時の太常卿(宮廷の祭祀を司る部署の長官)であった。仕事人間で、毎日分刻みで公務をこなしていた。職務優先の人生を送り、開元年間(713〜741)に亡くなった。かれこれ二十年前のことになる。 ある日、元英の息子が打物…

人柱

隋末のことである。汾州(ふんしゅう、山西省)で城壁を築いていたのだが、不思議なことに西南の隅だけが何度作業をしてもうまくいかなかった。朝、でき上がったかと思えば、夕方には崩れてしまうのであった。城内に十二、三歳になる少女がいたのだが、突然…

伝屍病

隋の煬帝(ようだい)の大業末年(六一七)のことである。洛陽(河南省)の民家で伝屍病(でんしびょう)が発生し、数人いた兄弟が相次いで死んだ。 後に、ある人が伝屍病にかかって死んだ。その人が今にも息を引き取りそうになった時、家族は枕元で顔を覆っ…

海賊

唐の臨海県(浙江省)に袁晁(えんちょう)という人がいた。表向きは海商であったが、その実は海賊を働いて荒稼ぎをしていた。 広徳(こうとく)二年(746)のある日、袁晁は手下を率いて永嘉(えいか)県(浙江省)へ掠奪に向った。途中で大波に遭い、沖合…

学問続けて五百年

辰州(しんしゅう、湖南省)麻陽(まよう)県に働き者の農民がいた。毎日、朝から晩まで田畑を耕して日々の糧を得て、それなりに幸せに生活していた。 ある日のこと、一匹のブタがどこからともなくやって来て田んぼに入ると、植えたばかり苗を食ってしまった…

白い鸚鵡

唐の天宝年間(742〜756)に嶺南(れいなん、広東・広西・安南地方)から一羽の白い鸚鵡が献上された。珍しく思った皇帝はこの鸚鵡を手元で飼うことにした。宮中で暮らすこと数年、元々聡明なこの鸚鵡は中華の言葉を憶え、達者に喋るようになった。上は貴妃…

うっかり

臨済(りんせい、山東省)の県知事李回(りかい)の妻の張氏は盧州(ろしゅう、安徽省)長史(州の属官)の娘であった。父親は長年、長史を務めたが、高齢を理由に辞職して故郷で隠居生活を送っていた。 この張老人、隠居の身となった途端、暇を持て余してし…

劉玄

南朝の宋のことである。中山(河北省)の劉玄(りゅうげん)という人が越城(えつじょう)に住んでいた。 ある夜、黒い袴子(ズボン)をはいた人が火を取りに来た。その顔には目も鼻もなく、ただ草がぼうぼうに生えているだけであった。 不思議に思って、占…

オウ涛

汝南(じょなん、河南省)の人、オウ涛は古典を学び、道術を好んだ。旅に出て、ブ州(浙江省)義烏(ぎう)県に居を定めた。 一か月あまり経ったある夜、どこからか娘が二人の小間使いを連れて訪ねてきた。小間使いの一人が言った。 「こちらは王氏のお嬢様…

侠僧

唐の建中年間(780〜783)初めのことである。 韋生(いせい)という人が家族を連れて汝州(じょしゅう、河南省)への路を急いでいた。家族には婦女子が多く、また多くの家財道具を携えていたため、その歩みは遅々たるものであった。韋生自身、豪胆な気性で知…

長安(陝西省)の青龍寺(せいりゅうじ)の儀光禅師(ぎこうぜんし)は、徳の高いことで知られていた。 開元十五年(727)にある役人の妻が死に、祈祷のために儀光禅師が招かれた。儀光禅師は数日間、母屋の脇部屋に滞在し、死者を供養することになった。 世…

古寺の怪

唐の貞元年間(785〜805)初めのことである。木師古(もくしこ)という旅人がいた。ある日、金陵(南京)の近くの村まで来たところで、日が暮れた。古寺に一夜の宿を求めると、住職は木師古を狭く、みすぼらしい部屋に案内した。 寺にはほかに客間があったの…

大蛇の葉

ある役人が南方へ出張した時のことである。山中で一匹の大蛇に出会った。長さ数丈(一丈は約3.1メートル)、太さは一尺五寸(約46センチ)はあろうかという巨大な蛇であった。幸い満腹のようで役人には見向きもせず、はち切れんばかりに膨れ上がった腹を抱え…

盧江の馮婆さん

馮婆さんは盧江(ろこう、安徽省)の田舎に住む農婦である。とても貧しく、夫に先立たれ、子供もないため、村人達から馬鹿にされ、誰にも相手にされなかった。 元和(げんな)四年(809)に、淮楚(わいそ)地方(安徽、湖北省一帯)が大飢饉に見舞われたた…

書生と蛇

昔、范(はん)県(現山東省)に一人の書生がいた。たまたま外出した折に一匹の小蛇を見つけた。その蛇のあまりにも頼りなげな姿に哀れをもよおした書生は連れ帰って飼うことにした。始めは小さかかった蛇も数ヶ月もすると立派な蛇に成長した。 書生は飼いは…

東晋の安帝の義煕(ぎき)年間(405 〜 418)のことである。琅[王邪](ろうや)郡(山東省)費県の王氏の家では、しばしば物が盗まれた。王氏 の主人は泥棒の仕業だと思い、戸締まりを厳重にしたが、それでも盗みはおさまらなかった。 しばらくして、主人…

鸚鵡

隴右(ろうゆう、青海省東端)に劉潜(りゅうせん)という富農がいた。劉潜には今年十五才になる娘が一人あるだけだった。類まれな美人で、結婚を申し込む者が跡を絶たなかった。劉潜は娘を非常に愛していたので、どこにも嫁がせず、手元に置いていた。 劉潜…

睦州(ぼくしゅう、現在の浙江省)刺史(州知事)李伯誠(りはくせい)に、元平という息子がいた。彼には生まれながらに左の股に小さな朱い痣があった。大暦五年(770)、元平は勉学のために親元を離れて東陽(浙江省)の寺院へ移り住んだ。 一年ほど経った…

和尚と毒薬

昔々のことである。 一人の和尚が無性に蒸し餅を食べたくなった。そこで寺の前の店に行き、数十枚の蒸し餅を買い込んだ。ついでに蜂蜜も一壷買った。部屋に戻ると早速、蒸し餅に蜂蜜を塗って食べた。何枚か食べると満腹したので、残った分は鉢に入れ、蜂蜜と…

白気

河南の龍門の僧侶、法長(ほうちょう)は鄭州(河南省)原武(げんぶ)の人であった。 宝暦年間(825〜827)に、法長は故郷の原武に戻った。家には数頃(当時の一頃は約 580アール)の田畑があり、まだ刈り取りをすませていなかった。 ある夜、法長が馬で田…

儀光襌師(後編)

唐の中興とともに則天武后時代に誅滅(ちゅうめつ)された人々の名誉回復が行われた。瑯邪王(ろうやおう)の血族に関しても例外ではなかった。このことを知った襌師は寺主に己の出自を告白した。 寺主は襌師がやんごとない生まれであることに大いに驚き、岐…

儀光襌師(前編)

長安青龍寺の儀光襌師(ぎこうぜんし)が入滅した。唐の開元二十三年(735)六月二十三日のことであった。襌師は皇族の一員に生まれついた。父は瑯邪(ろうや)王李冲(りちゅう)である。李冲は父の越王貞とともに嗣聖五年(688)に則天武后に対して挙兵し…

朱七娘

唐の洛陽(河南省)の思恭坊(しきょうぼう)に朱七娘(しゅしちじょう)という妓女がいた。朱七娘はとうに盛りを過ぎていたが、若い頃、王将軍の 寵愛を受けていた。開元年間(713〜741)に王将軍は病死したのだが、朱七娘はそのことを知らないままに半年が…

木霊

陝州(せんしゅう、陝西省)西北の白経嶺(はくけいれい)付近に上邏(じょうら)村という農村がある。その村に田氏という農民がいた。この田氏が井戸を掘っていた時のことである。 掘り進む内に人の腕位もある太さの木の根に突き当たった。根の表皮は茯苓(…

李光遠

開元年間(713〜741)のことである。李光遠(りこうえん)が館陶(かんとう、山東省)県の知事となった。当時、館陶一帯は旱魃(かんばつ)に見舞われた。光遠は文書で旱魃の状況を中央に訴えようとした。ところが、光遠は文書を書き上げた途端、急死してし…

非情

貞元年間(785〜805)に、崔慎思という男が進士試験を受けるため、博陵(河北省)から上京してきた。長安には頼るべき親戚も知人もないので、空き家を探して借りることにした。しかし、進士試験の時期には慎思のような受験生が多く、空き家はなかなか見つか…

山東の長白山の西に墓が一つある。地元の人間は『夫人の墓』と呼んでいたが、誰の墓であるかわからなかった。 北斉の孝昭帝の御世(560〜561)に、広く天下の俊才を求めたことがあった。清河(河北省)の崔羅什(さいらじゅう)は若輩にもかかわらず令名が高…