2010-01-01から1年間の記事一覧
都でも有数の資産家が、数年前から昌平(しょうへい)州(北京近郊)出身の下女を雇っていた。下女はたいそう賢く、よく主人の意を汲んだ。そのため、夫人はすっかり気に入り、財産の隠し場所を教えて、その管理を任せるほどであった。 ある夜、主人が不在の…
元代の杭州(浙江省)で動物の曲芸を見せる者があった。それは亀を使うものであった。 まず、大小七匹の亀を机の端に並べる。そして太鼓を打ち鳴らすと、一番大きな亀がノッソリと動き出して机の中央に進み出てうずくまる。次に二番目に大きな亀がノソノソと…
元嘉九年(424〜453)のことである。 南陽(なんよう、河南省)の楽遐(がくか)という人が部屋で坐っていると、突然、空中から夫婦の名を呼ぶ声が聞こえてきた。 不思議な声は真夜中まで続いて、ようやくやんだ。楽遐は驚きとともにおそれを抱いた。 数日後…
唐の天宝年間(742〜756)のことである。金陵(きんりょう、南京)の裕福な家の子弟で陳仲躬(ちんちゅうきゅう)という人がいた。仲躬は生来学問を好み、研鑚(けんさん)を積むために何千両もの金子を携えて洛陽に遊学することにした。洛陽に着いた仲躬は…
ある老人が車で崇文門(すうぶんもん)から北京に入ろうとしたところ、城門に着く前に頓死してしまった。御者が知らずに城門を通り抜けようとすると、番兵が老人の死体を見つけた。御者は殺人の疑いで捕らえられた。 すでに日も暮れていたので、死体は翌日、…
杭州(浙江省)には夜航船というものがある。文字通り夜航行する船で、一晩に百里(当時の一里は約580メートル)ほど進む。船室らしいものはなく、男女は船倉(せんそう)に雑魚寝するのだが、その間を隔てるのは一枚の板だけであった。 仁和(じんわ)の張…
南康(なんこう、江西省)に任考之(じんこうし)という人がいた。この人が舟に使う材木を切り出している時、社(やしろ)の神木の上に一匹の猿がいるのを見つけた。 猿の腹は丸くせり出し、どうも身重のようである。考之は面白半分に木によじ登ると、この猿…
梁の頃のことである。沐浴(もくよく)の時に、いつも卵白で髪を洗っている人がいた。 「卵白で髪を洗うと、艶がよくなる」 とのことで、沐浴のたびに二、三十個もの鶏卵を使っていた。 その人が息を引き取る時、髪の中から奇妙な音が聞こえた。まるで数千羽…
後漢の永平五年(62)のことである。 会稽(かいけい、浙江省)の劉晨(りゅうしん)と阮肇(げんちょう)という人が、薬草を採りに天台山へ入ったところ、道に迷ってしまった。 山の中をさまようこと十三日に及んで持参した食糧も尽き、もうだめだと観念し…
長安の咸宜観(かんぎかん)に魚玄機(ぎょげんき)という女道士がいた。字(あざな)は幼微(ようび)といい、もとは長安の娼家の娘であった。絶世の美貌と才気に恵まれ、書や文を好んだ。特に詩作に、その才能を発揮した。十六歳の時、妓女となったが、金…
一月あまり後、季和は洛陽から戻る途中、再び板橋店を通りかかった。行きと同様、三娘子の旅籠に宿をとった。偶然にも他の泊まり客はいなかった。 三娘子はこの前と同じく、料理と酒と巧みな話術で季和をもてなしてくれた。夜も更けてそろそろ寝る時刻になっ…
木人は木牛に鋤(すき)をつけると、土間の一角を行ったり来たりしながら耕しはじめた。耕し終わると、三娘子は例の小箱から袋を取り出して木人に手渡した。木人は袋の中身を耕した畑にまいた。袋の中身は蕎麦(そば)の種であった。蕎麦の種は地面に落ちる…
唐のことである。 開封(かいほう、河南省)の西郊に板橋(はんきょう)店という宿場があった。この宿場で三娘子(さんじょうし)という女がいつの頃からか旅籠を開いていた。この女の生国、氏素性を知る者はいなかった。どこからともなく現われた三十あまり…
唐の丞相の宋申錫(そうしんしゃく)は宰相になったばかりの頃、帝からの信任が厚かった。宋申錫自身も国家の安泰にすることこそ、己の責務だと自負していた。 当時、朝廷は宦官勢力と科挙出身者とが対立していた。その中で鄭注(ていちゅう)は両勢力と通じ…
唐の元和(げんな、806〜820)年間のことである。 呼延冀(こえんき)という役人が妻を連れて任地の忠州(四川省)へ赴く途中、追いはぎに出くわした。身ぐるみはがれたが、辛うじて命だけは落とさずにすんだ。助けを求めて人家を探してさまよううち、一人の…
李傑(りけつ)が河南尹(かなんいん)であった時、母親が実の息子を不孝の罪で訴えるという奇妙な事件が起こった。息子に事情を問うと、泣くばかりで何の申し開きもしない、ただ、 「母に対して罪を犯したのですから、死罪になって当然です」 と言うだけで…
明の萬暦二十六年(1598)、副総兵訒子龍(とうしりょう)は、日本に攻められた朝鮮を救援するために水軍を率いてかの地に赴いた。子龍は歴戦のつわもので、齡七十を越えながら意気はなはだ軒昂(けんこう)、必ずや戦功を立てんと張り切っていた。 国境を流…
山西陽曲(ようきょく)県の山中で不思議な声を聞く者があった。 「出ようか、出るまいか。出ようか、出るまいか……」 この声は数日続いたが、返事をする者はいなかった。ある時、一人の農夫が通りかかってふざけて答えてみた。 「出てこいよ」 するとたちま…
南朝宋の大明三年(459)に、王瑤(おうよう)が都で死んだ。王瑤の死後、家には幽鬼が現われるようになった。 それはひょろ長くて色が黒く、肌脱ぎに犢鼻褌(とくびこん、ふんどしの一種)を締め、いつも家に来ては歌ったり、人の口まねをしたりした。それ…
顧長康(こちょうこう、東晋の大画家顧緂之《こがいし》、長康は字)は江陵(こうりょう、湖北省)で一人の娘を愛した。娘も愛情をもって応えてくれた。短い逢瀬(おうせみ)を終えて、娘は帰っていった。 娘が立ち去った後も、長康は娘のことを思い続けた。…
河北東光県のある男が村の娘とねんごろな仲になり、結婚の約束まで交わした。しかし、男は父親が決めた縁談で、隣村から妻を迎えることとなった。妻は男を愛し、男も妻を愛し、娘とは別れた。 ある日、男は村に出かけ、かつての恋人であった娘と再会した。娘…
広東や広西地方には奇妙な風習がある。嫁入り前の娘達が寄り集まって義理の姉妹の契りを結ぶのであるが、これを「金蘭会」と呼ぶ。 上は笄(こうがい、女子が十五歳になると、髪を結い上げて笄を挿した。転じて成人に達することを意味する)に達した者から下…
李清(りせい)は呉興(ごこう、浙江省)の於潜(おせん)の人である。大司馬府参軍督護(だいしばふさんぐんとくご)として桓温(かんおん)に仕えていた。 勤務中に病にかかり、帰宅して死んだのだが、本人は自分が死んだことに気づかなかった。伝令が幡(…
徐熙(じょき)は後に射陽県(江蘇省)の知事になった人であるが、若い頃は鍼灸(しんきゅう)を修め、そちらの方でかなり名が通っていた。 ある真夜中のこと、眠っていると暗闇ですすり泣く声がした。いつもきちんと戸締まりをしているので、外から何者かが…
河のほとりにはよく幽鬼が出る。しばしば通りかかる人の名を呼ぶのだが、うっかり返事をすると溺れ死んでしまう。幽鬼が河に引きずり込むのだという。 李戴仁(りたいじん)という人が枝江県(湖南省)の入江に船を舫(もや)っていた。月が晧々と照る明るい…
北京の某公の家に李某という老僕がいた。性格はいたって誠実で、人をだますようなことは決してしなかった。 主人に仕えて数年が過ぎ、わずかながら蓄えもできた。暇を取った李某は蓄えを元手に市場に小さな店を開き、従業員を雇って驢馬の屠殺(とさつ)と解…
長安の楊崇義(ようすうぎ)は先祖代々の富豪であった。その豪奢な暮らしぶりは、王侯をもしのぐものがあった。崇義の妻劉氏は類まれな美女であった。劉氏は隣家の李掩(りえん)と密通していた。劉氏はいつしか李掩と離れられなくなり、邪魔な夫を殺してし…
勝州(しょうしゅう、内蒙古自治区)都督(ととく)薛直(せつちょく)は、丞相(じょうしょう)薛納(せつのう)の息子であった。殺生を好み、鬼神を恐れなかった。 ある時、管轄下の県へ出かけた。戻る途中、宿場をあと二つ過ぎれば勝州に着くというところ…
さる旧家に、二階建ての書庫があり、いつも鍵がかけられていた。不思議なことに開けてみるたびに床に積もった塵の上に女の小さな足跡が残されていた。大きさは二寸あまりで魑魅魍魎(ちみもうりょう)の仕業であることは明らかなのだが、その姿を見たものは…
値切ってはみたものの、卞親爺は頑として首を縦にふらなかった。航は金を取りに戻ろうかとも思ったが、期限の百日に遅れる恐れがあった。そこで、連れてきた下男や馬を処分して二百貫の銭を揃えて臼と杵を買い取ると、その足で藍橋に向かうことにした。 「臼…